太平天国とは、地上に天国を創ろうとし、散っていった組織である。
概要
基本データ | |
正式名称 | 太平天国 Taiping Heavenly Kingdom |
国旗 | 募集中 |
国歌 | 三一颂 |
国花 | ― |
国鳥 | ― |
公用語 | 中国語 |
首都 | 天京(現・南京) |
面積 | 約65万km²(最大) |
人口 | ― |
通貨 | 太平天国聖宝 |
科挙落ちの洪秀全が建てた、1851年から1864年にかけて存在した清朝打倒を目指して建国された国。
世界史のみならず歴史総合の段階で耳にすると思われる、中国の歴史上最大級の反乱であり、数千万人ともいわれるおびただしい死傷者を出した「太平天国の乱」を引き起こした勢力である。
母体組織である「上帝会(拝上帝会)」は、もともとはキリスト教の秘密結社にすぎなかったが、その思想が広く迫害を受けていた人々、特に客家という中国各地でコミュニティを作っていた国内移民の人々を中心に勢力を拡大、1850年に広西省の金田村で蜂起した。清軍と一進一退の攻防を繰り広げつつその領域を広げ、ついに副都の南京を陥れるに至った。
地図で太平天国の領域を見ると清朝の領土に比して大したことはないように見えてしまうが、南京をはじめ浙江省や江蘇省といった清の経済的な心臓部といえる領域を占領。我が国で言えば名古屋から大阪あたりを一気にとられたようなもので清は大いに窮することとなった。
しかし、勝ちに乗った太平天国はその後内部で混乱が起きたり、洪秀全自身が堕落してしまったことでその勢いを衰微させ、1864年7月に南京(天京)が陥落し、歴史から退場することになった。
冒頭の「滅満興漢」という言葉は「満州人を滅し、漢民族を興す」という意味で、もとは満州の女真人が建てた征服王朝である清を滅ぼし、漢民族の手に取り戻すという太平天国のスローガンであった。ちなみに半世紀後には義和団戦争(義和団の乱)が発生し、西洋列強による中国分割が進んだことから「扶清滅洋」という清を助けて侵略者の西洋を打ち倒すという標語がかかげられた。なんとも都合がいい
呼称については辮髪をほどいて長髪にしたことから、清側からは「長髪賊」、太平天国自身では「長髪」と呼ぶことが多かった。太平天国の乱という呼称が定着したのは近代中国史の研究が行われはじめた1930年代のことで、それまでは「長髪賊の乱」などとよばれることが多かった。
清朝の正規軍である八旗や緑営は何の役にも立たなかったため、この反乱の鎮圧には常勝軍という外国人部隊や、郷勇と呼ばれる官人主導の義勇軍が大いに貢献した。そのため、アヘン戦争で打撃を受けていた清朝がさらにその落日の度合を強めた出来事としても知られる。
他にも、近代麻雀が考案・普及したきっかけの出来事としても知られている。
年表
西暦 | 出来事 |
1840 | アヘン戦争が勃発し、清朝が英国と交戦状態になる |
1842 | 英国との間で南京条約が締結。香港が割譲され、上海・広州・福州・厦門・寧波の五港が開港される |
1843 | 洪秀全が郷試(科挙の予備試験)に落第。『勧世良言』と出会い、キリスト教に傾倒する |
1843 | 虎門寨追加条約が締結され、関税自主権喪失・領事裁判権、片務的最恵国待遇が追加される |
1843 | 洪秀全が自らの教えを広めるために、活動を開始する |
1844 | 清がアメリカと望厦条約、フランスと黄埔条約を結ぶ。いずれも対英と同様以上の内容 |
1847 | 洪秀全が宣教師のロバーツに洗礼を申し出るも、拒否される |
1847 | 広西省での布教が成功し、数千人の信者を獲得。これを下に「上帝会」が本格結成する |
1850 | 清で2月に皇帝の道光帝が崩御。翌月、咸豊帝が即位する |
1850 | 12月に上帝会が金田村で蜂起。清軍と交戦となり、太平天国の乱が勃発する |
1851 | 9月に永安州を占領。太平天国の建国を宣言し、基礎的な体制が作られる |
1853 | 3月に太平天国が南京を占領。「天京」に改称し、ここを首都に定める |
1853 | 清の官僚・曽国藩が湘軍を結成し、太平天国軍を交戦を開始する |
1855 | 北京占領を目指した北伐が失敗に終わり、将軍が処刑される |
1855 | 征西軍が湘軍を追い詰め、湖南省・湖北省を勢力圏に入れる |
1856 | 9月に天京事変が発生。東王・楊秀清が粛清されるが、その後も内紛が相次ぎ、西部で後退する |
1856 | 10月よりアロー戦争が勃発し、清が英仏連合軍と交戦状態に入る |
1858 | 6月に清と諸外国の間で、外交官の北京駐在や漢口や九江など十港の開港を求めた天津条約が締結 |
1858 | 清軍が南京の包囲体制を固め、西側からも湘軍が攻勢を強める |
1858 | 11月に太平天国軍が三河鎮の戦いで湘軍を破り、勢力を盛り返しはじめる |
1860 | 太平天国軍が南京の包囲を突破し、6月に蘇州を占領する |
1860 | 10月に清が英仏との間で天津の開港や北京の公使駐在などを約した北京条約を締結し、和平する |
1861 | 5月に太平天国軍が浙江省へ侵攻し、寧波など主要部を占領する |
1861 | 10月に咸豊帝が崩御。同治帝が即位し、西太后らによって英仏等と協調し、反乱鎮圧する事を表明 |
1862 | 2月からウォードの手による洋槍隊が活躍し、上海防衛に成功。常勝軍に改称する |
1862 | 4月に曽国藩の弟子・李鴻章によって淮軍が結成。寧波や上海で鎮圧に向かう |
1862 | 5月から淮軍や常勝軍の手により南京攻囲戦が開始。湘軍も更に加わる |
1863 | 太平天国が12月に蘇州を失陥。常勝軍は大勢は決したと判断し、ゴードンの手によって解散 |
1864 | 6月1日。洪秀全が死亡。7月19日に南京が陥落し、太平天国が滅亡する |
1868 | 最後の関連勢力であった捻軍が、淮軍によって壊滅。これでほぼ反乱は収まる |
歴史
以下は記事中に登場する重要な都市のだいたいの位置関係である。
蜂起まで
この反乱の主導者・洪秀全はどこかの美大落ちと似て、科挙に落ち続けて社会から落伍した人間の一人である。広東省の田舎に生まれた彼は村で唯一四書五経を習得できる人間として嘱望され、郷里から期待をもって送り出されていた。村にとって科挙合格者を出すことは名誉となるだけでなく、村に課せられる様々な諸役に便宜を図ってもらえるなどメリットも多かったからである。
この頃の科挙は隋代の当初と比べて大きく複雑化しており、郷試→会試→殿試という基本形に加えて覆試というふるい落とすための試験があったり、郷試の前に学校試という国立学校の試験を経なければならなくなったりしていた。その為当然費用も受験期間も跳ね上がり、洪秀全もそんな受験者の一人であったが、三度に渡って学校試を受け続けるも落第が続いた。
それでも29歳(1843年)の頃に学校試をくぐり抜けて郷試を受けるも、これにも失敗して失意に暮れていた。そんな中で梁発の著したキリスト教[1]入門書『勧世良言』を読み、深く心酔することになる。その中に書いてあった書物と自分とを重ね合わせ、神を「天父」、イエスを「天兄」と確信した彼はそれまで持っていた孔孟の書物を取り捨て、キリスト教に深く帰依[2]することになった。
彼はキリスト教を外来の宗教とは考えず、中国古来から根付いた宗教であると考えていた。我々からすれば意味のわからない誤解であろうが、『勧世良言』はじめプロテスタントの伝道師たちはヤハウェの訳語として最高神を意味する「上帝」という単語を当てておりこれを根拠に彼は儒教へのアンチテーゼとして、更に古来の宗教としてキリスト教を広めようと志したのである。
しかし、洪秀全の中ではそうでも、彼が最初布教した郷里の広州(広東省)の人々にとっては受け入れられるものではなかった。そもそも広州自体、アヘン戦争に敗れた清が南京条約の結果開港を迫られ、開かれたばかりの所である。キリスト教が外来のものであることはその人々にとっては自明であり、いかに洪秀全が言葉を尽くそうと糠に釘であった。だが、全くの無成果でもなく、洪秀全には後に腹心となる馮雲山ら数人の知識人(読書人[3])たちが同志となってくれた。
彼らはその後、広西省の金田村に布教の拠点を移し、そこでは馮雲山の尽力で数千人の信徒を獲得した。彼の地は17世紀に入って開発が進められたところだったが、有力な移民とそうでない下層移民たちの生活の格差・差別が著しく、利権だけでなく宗教的な庇護でさえも有力な移民たちによって独占されてしまっていた。馮雲山はこれをうまく利用して下層民に布教を行い、モノにしたのである。これを基盤として1847年に「上帝会」が作られ、太平天国の前身となった。
上帝会は当初はヤハウェを信じるキリスト教系の教団であったが、信徒が増えるにつれて既存のコミュニティとの軋轢が増えていき、政治結社と化していった。そして、信仰に加えて上帝会の苦境を打破する方策として地上に「天国」を創ろうと画策するようになった。男女の隔てなく財産は平等に分かち合い、旧来の因習を打破した理想の国を創ろうと具体的な行動に移し始めた。
しかし、儒教を是とする清朝にとって異教[4]を信仰する上帝会は反乱分子でしかなく、偶像破壊[5]の一環で廟堂を破壊した事もあって取締りが年々厳しさを増していった。洪秀全自身は当初から武装蜂起を考えていたわけではなかったが、1850年7月より武装蜂起の準備を勧め、12月には遂に地方官の派遣した軍に勝利。1851年1月に蜂起を宣言した。これに前後して上帝会の人々は辮髪を切り、紅巾[6]を巻いて清朝からの決別を明らかにした。ここから14年にわたる彼らの戦いがはじまった。
蜂起~南京占領
太平天国は慎重な準備を重ね、統制のとれた軍隊を組織するに至った。25人を一隊とし、略奪や強姦を厳しく禁じ規律ある軍を作ったと同時に、読書人と呼ばれる知識人階級が指揮官となっただけあって効率的な用兵で広西省の官兵を撃破し、足場を築き上げていった。
清朝は次々と官軍を破り、清朝打倒を掲げる太平天国軍を見るにつけ危険な存在と認識するに至ったが、アヘン戦争でまざまざと見せつけられた通り、正規軍は満州人による八旗[7]も、漢人などそれ以外による緑営[8]も長い平和に浸って緩みきっており、兵として全く役にたたなかった。旗人(満州人)将校の烏蘭泰は「銃声がすれば慌てふためき、誰かが負傷すれば算を乱して退却しようとする」「7人の賊[9]が1000人の緑営が守る陣に攻撃をしかけたら、陣を捨てて逃亡した」と散々な評価を下している。
兵卒レベルだけでなく、旗人官僚と漢人官僚の対立も著しく、統制のとれた行動が中々とれずに居た。そのせいでせっかく8月にようやく太平天国軍を山地に追い詰めても取り逃すという失態を犯してしまう。9月には永安州を占領し、初めて地方行政府を傘下にいれることに成功した。40平方キロほどのこの小さな拠点で太平天国は数ヶ月ほどで防備を整え、同時に12月に基本的な体制を整えた。洪秀全は自らを天王とし、ここまで彼を支えた六人の功臣を王に封じた。正軍師[10]であり、洪秀全にお告げを伝える(天父下凡)シャーマンである楊秀清を東王に封じて筆頭にし、次席にもうひとりのシャーマンである蕭朝貴を西王、馮雲山を南王、韋昌輝を北王、遊軍として石達開を翼王にそれぞれ叙してその体制を固めたのである。
数万人規模に膨れ上がっていた太平天国軍は、すぐに兵糧がつきたため、翌春より楊秀清の提言を容れて湖南省・湖北省を目指し、53年1月には武昌を落とし、初めて省都を落とすという戦果を得た。ここで太平天国軍は大量の金銀財宝を得たが、清側の抵抗もあって馮雲山と蕭朝貴を失うという痛手も負うことになった。ここの権力バランスの微妙な崩れが天京事変につながっていく。
勢いをさらに増した太平天国軍は更に南京を目指し、わずか2ヶ月後にこれを陥落させた。洪秀全はかねてよりの約束の地であるとして南京を「天京」と改称し、王朝の建国をここに明らかにする。
さて、ここまで負け続きであった清軍だが、全く手をこまねいていたわけではなかった。自らの無力さを悟った中央政府は、自衛組織である団練と、地元有力者である郷紳の力を借りようと目論んだ。それが、清の高級官僚である曽国藩[11]が地元の湖南省湘郷県の有志たちを集め、長沙にて1853年に組織した「湘軍」である。
これは対太平天国軍のための義勇軍という体であったが、太平天国軍にとっては血で血を洗う死闘を繰り広げる、最大の宿敵となる存在であった。清はこの湘軍のような郷勇と呼ばれる義勇軍を主軸として事の対処に当たろうとしたのである。そして清はこの郷勇に対して財政的な支援をするため通関税として釐金を徴収し、軍費にあてた。
南京占領~北伐・征西
南京占領の事態に直面した清軍は、その南北に大営と呼ばれる大規模な軍事基地を設け、太平天国軍と長期戦の構えを見せた。これを打開する為、天京の本部内では
という案が出された。
最終的には3の案が採用され、1853年3月に南京占領から間を開けずに北京占領を目指す北伐軍が派遣された。新たに丞相に任命された林鳳祥や、これまでに功をあげた李開芳を将とし、2万人で構成される精鋭部隊である。しかし、流石に首都への道は堅固であり、進軍そのものは進んだが、天津をはじめ北京に繋がる要衝は落とせず各地に分隊をおいて南京の援軍を待つ方策をとった。
だが、清には切り札があった、モンゴル人貴族のセンゲリンチン(僧格林沁)である。彼は投降した敵を遇して敵の分断をはかったり、砦を水攻めにするなどの策で北伐軍を叩き潰し、1855年に林鳳祥・李開芳を捕らえて北京で処刑した。これで北伐は頓挫し、これ以後も太平天国が北京周辺を脅かすことはなかった[12]
北伐軍出発から3ヶ月後には胡以晃率いる征西軍が出発し、長江に沿って安徽省の安慶を落とし、そこを根城にして漢口や漢陽に攻撃を仕掛け兵糧や武具を得た。だが、1854年になると彼らの前に有力な敵が現れた。先にあげた曽国藩率いる湘軍である。彼は太平天国を「粤匪[13]」と呼び、太平天国の為した廟堂や寺院の破壊を非難して「孔子、孟子の苦痛や神々の怨み」を晴らすことを大義名分に反乱軍に相対した。儒学によってなりたつ清の官僚らしい言い分である。
4月に征西軍が湖南・湖北省に進出するとその省境で戦闘となったが、これには敗れてしまう。曽国藩自ら兵を率いて再度戦うも、軍才には乏しく敗れてしまい、生来の真面目さと絶望のあまり二度も入水自殺を図ろうとした。部下が必死に止めたことでなんとか生きながらえた。その後、軍勢を立て直し、拠点の長沙を出て、6月末に武昌を占領した太平天国軍と交戦。これを破って、長江の支流である湘江を北に下って要衝を次々と占領、10月には長江に突入し、14日に武昌を奪回し、太平天国軍を東の要衝である九江へ退かせた。緒戦での失地を挽回し、湘軍の力量を大きく見せつける結果となった。これには彭玉麟という湘軍についた水軍司令官の大きな活躍があった。
しかし、Googleマップでみれば分かる通り、武昌というのは長江でも中流域の後ろ側であり、まだ到底征西軍を挫いたともいえず、太平天国側からすれば単に大敗を喫したというだけにすぎなかった。本当の戦いはここからである。まず征西軍は九江に近い要衝・田家鎮に15キロにわたる城塞をつくりあげ、10万の兵を駐屯させたうえで湘軍を迎え撃つことにした。尚、そこには長江全体にいかだを鉄鎖で繋いで物理的に塞いだ上に、そこを砲台にするという赤壁の戦いに倣った防備もあった。またここは前年にも江中源率いる湘軍を打ち破った所である。
11月に湘軍は北岸と南岸、そして長江の水軍の三手に分けて田家鎮へ攻めかかり、水軍は鉄鎖で塞がれた要害を強行突破し、その奥にある千艘にわたる太平天国軍の兵船を焼き払った。征西軍はこれを見て早々に撤退を決断し、九江へ撤退。彼らは10ヶ月で湖南・湖北省に至る拠点を喪失することになり、湘軍の大勝利であった。湘軍はそのまま1855年1月に九江へ攻めかかったが流石に攻めあぐねて一旦、鄱陽湖に繋がる湖口鎮を攻め落とし、そこを当面の拠点とする。
だが、征西軍もこのままやられっぱなしではなかった、安慶より2000人の兵を連れて翼王・石達開が湘軍の前に立ち塞がったのである。彼は1月29日に鄱陽湖に曽国藩を誘い込んでこの軍を壊滅させ、搭乗していた兵船も焼き払った。曽国藩本人は寸前に小舟に乗り換えて難を逃れたものの、江西省の湘軍はこの攻撃によってバラバラに分断された。そのまま勢いに乗って漢口・漢陽を再び占領し、広西省の大半を奪還しただけでなく長江沿いに反攻して武昌を奪回するという目覚ましい戦果をおさめた。曽国藩はなんとか南昌まで戻って体制を立て直したが、流通路も太平天国に抑えられこのまま続けばジリ貧で破滅するのは目に見えていた。
しかし、天京周辺に居た清軍を掃討するために楊秀清は石達開を呼び戻した。この隙を突いて湘軍は攻勢に打って出て武昌を奪回し、破滅からは免れることに成功した。1856年9月には突如として石達開軍が撤退を開始し、征西はこれを以て終結する。太平天国の支配構造を一変させる天京事変が発生したのである。
天京事変① ―楊秀清の専横と暗殺まで―
先に説明した通り、洪秀全は楊秀清を東王に封じ、自らに次ぐ者として重用した。自らを天命により立つ存在と信じる彼にとっては上帝の託宣(天父下凡)を行う彼は権力の源泉として欠けないものだったのである。実際に彼の託宣に従って上手くいった例もあり、洪秀全はそれに依存せざるを得なくなっていった。
さて、南京に入城すると、楊秀清は天父下凡を前にも増して政治的に利用するようになった、1853年11月に天王府(洪秀全の宮殿)で下凡にかこつけて「汝の過ちを知っているならば、杖で40回打ち据えよ」と洪秀全に告げて、楊秀清の手で自ら洪秀全を打ち据えた事がその始まりであった。トランス状態から抜けた楊秀清は続けて官吏が罪を犯したときは先に楊秀清が調査し、洪秀全に報告してから判断することを天父は告げていたと洪秀全に告げた。
どこをどう見ても臣下の振る舞いには見えないが、洪秀全は怒るどころかこれを聞き入れ、「清胞(楊秀清)の言うことは正しい。これより後、朕は清胞と必ず相談してから万事執り行うことにする」と、楊秀清がNo.2であることを改めて明確にした。名目上、楊秀清は洪秀全の弟ということになっていたが、彼は下凡を通じて”父”となれるのだから事実上楊秀清が絶対的な権力を握っているようなものであった。むしろ、東王として名目上家臣という隠れ蓑がある分もっとたちが悪いとすら言える。
これ以後、楊秀清は下凡を用いて次々と政敵の一掃を行った。例えば先ほど記述した田家鎮では一時湘軍がこれを掌握したが、敗戦の責任を指揮官であり燕王に封じられていた秦日綱になすりつける形で、まずは監禁し、55年2月に天父下凡で王位を剥奪して三年間奴隷にする処分を下した(半年後に復職する)。他にも胡以晄に安徽で敗北した責任を転嫁して、豫王の位を奪った。下凡という手段を用いてる以上、過ちは許されない立場であり、常に誰かに押し付ける必要があったのである。
北王の韋昌輝は特に楊秀清の責め苦を受けており、1853年に待遇に不満を持つ水軍将兵の抵抗事件が起きると彼はまたも責任を転嫁して数百回の杖刑を韋昌輝に受けさせ、立ち上がれないほどに痛めつけた。1854年には天父下凡が始まった時にすぐに人を集めなかったという咎で30回の杖刑を受けた。当然ながら韋昌輝は楊秀清を恨み、その噂は内偵を通じて清朝にまで伝わっていたほどである。
楊秀清の専横はとどまるところを知らず、1856年1月には天父下凡で「洪秀全がここまで天下を保てたのは、四弟(楊秀清)のおかげなのだから、九千歳などではなく、万歳に封じよ」という旨の命を洪秀全に下した。流石にこれには洪秀全も内心堪忍袋の緒が切れたが、天父の命令には逆らえず、楊秀清の誕生日に「万歳」と唱えさせる儀式を行うことを決定した。万歳とは皇帝にのみ許される長寿を願う呼称で、太平天国においては当然洪秀全にしか許されないものであった。それを楊秀清が犯したのである。明の末期に魏忠賢という宦官がおり、彼も楊秀清と同じく専横を極めていたが、それでも九千歳と自らを唱和させるに留めていたというのに、明らかに分を踏み外した行いである。
変事は9月に発生した。韋昌輝が洪秀全より「楊秀清を殺せ」という密命を受けたとして、1日に内通者の手引を経て東王府に攻撃を仕掛けた。一気に楊秀清を殺害し、彼の部下や兵士2万人も道連れに次々と殺されていった。これにとどまらず天京では楊秀清の関係者・縁者のあぶり出しが行われ「女でも子どもでも楊秀清の飯を食ったものは、誰彼構わず殺された」と、南京に滞在したヨーロッパ人は伝えている。楊秀清の首は長く天王府の前に梟首され、長江には縛られた東王府の役人や関係者の遺体が大量に浮かべられたという。
天京事変② ―内紛と粛清―
事変を聞いた石達開が西方より戻ると「楊秀清とその側近を誅すだけに飽き足らず、なぜ長髪の兄弟[14]をここまで殺したんだ!」と韋昌輝を非難した。しかし、韋昌輝はこれに逆上して石達開を暗殺しようと企んだ。石達開の方は身の危険を察知して早々に天京から去っていたが、代わりに翼王府(石達開の宮殿)を襲撃して彼の家族と部下を皆殺しにした。
これに石達開は大いに憤慨し、洪秀全に対して「韋昌輝を殺さなければ、軍を率いて南京を攻める」と脅しをかけ、これに屈した洪秀全は韋昌輝を処断し、彼の首を石達開に届けた。更に加えて石達開は天京事変に同心した秦日綱の処断も要求し、同じく洪秀全は処断し、身の安全を確信した石達開は平和的に南京へ入城した。
石達開の入城後、洪秀全は新たに石達開を楊秀清に変わるポジションに就けた。しかし、この頃の洪秀全はもはや猜疑心にまみれており、長く苦楽を共にした戦友であっても信頼できなくなっていた。そのため、洪秀全は自らの血縁から二人新たに王に封じたが、石達開と歩調が合わず、いたたまれなくなった石達開は事変から9ヶ月後の1857年6月に天京から自ら兵を連れて去っていった。かつては湘軍をあと一歩のところまで追い詰めた名将であったが、湘軍と清軍を相手に広西省や湖南省などの転戦で消耗し続け、四川省への渡河戦で失敗。清軍の包囲戦で追い詰められた後、部下の命と引き換えに降伏した石達開は1863年に成都において凌遅刑に処された。
天京の太平天国はこれを以て建国に携わった功臣を全て失い、洪秀全の元で諸王が協力して運営していく方式はこれをもって崩壊することになった。
地上に天国を作るはずだった太平天国の理想は、この天京事変の凄惨な有り様をもって霧散し、かわって大きな影を落とすことになる。太平天国の人々はこれ以後、理想を信じて戦うのでなく、清軍への恨みと報復の恐れという惰性と恐怖から戦うことになった。天京事変後、人々はこの失望感を以下の歌で現した。
「天父が天兄を殺した。天下は争っても取れぬ。長毛は本当の主人じゃない。これまで通り咸豊[15]に委ねよう」
新体制と天京攻防戦
天京事変の動揺と悪影響は前線にも及んだ。曽国藩率いる湘軍は長江経由で攻勢を強め、「一人残らず皆殺しにせよ」という曽国藩の命令通り、敗残兵は次々と敵の手にかかって殺されていった。1856年12月には武昌が、1858年5月には長らく拠点となっていた九江が遂に陥落し、太平天国は西方への足がかりを失うことになった。2万人近くに及ぶ太平天国の将兵は殲滅戦の指令通り全て殺害されていった。
また、首都の天京周辺でも清軍が勢いを盛り返し、1857年には東に80kmほど離れた鎮江が失陥した。1856年に欽差大臣[16]となった和春と、1858年に江南総督となった張国樑の下、軍の立て直しがなされて再び太平天国を圧迫しはじめたのである。石達開らによって破壊された江南・江北大営も1858年に再建され、再び天京は脅かされるようになり、太平天国の滅亡はすぐそこにあると思われた。実際、この時期に曽国藩は湘軍に属して指揮をとっていた弟の曽国華に「もうじき内乱は終わる」と手紙を贈っているほどである。
しかし、このまま太平天国が滅びるかと言えばそうはならなかった。事態に直面した洪秀全は、一旦就けていた兄の王号を剥奪し、楊秀清がかつて就いていた軍師の位に自らが就いて指導部の立て直しを図ったのである。
洪秀全は、五軍主将の制度を作り直し、陳玉成や李秀成、秀成のいとこである李世賢をまず将軍に任じた。いずれも若く、これまでの戦役において手柄と経験を詰んだ逸材である。特に陳玉成は猪突猛進の猛将で知られ、目の下のホクロから「四つ目の狗」と清軍から以前より恐れられていた。
まず陳玉成と李秀成は、江北大営を攻め落とすべく補給拠点となっている都市を寸断していく策を取り、8月に廬州を攻め落とした。すかさず9月に江北大営を攻めて清軍を敗走させ、10月には揚州を占領。江北大営はまたもや破壊された。九江を攻め落としていた湘軍はこれを看過せずに、廬州を目指して進撃するも、11月に三河鎮において、陳玉成が背後より奇襲をかけて湘軍の部隊を全滅させた。その中には曽国藩の弟、曽国華がおり、彼も戦死するという散々な結果に終わった。これを聞いた曽国藩は悲嘆に暮れ、かつて自分が征西軍に追い詰められていた1854年と重ねて日記に綴っている。この功績により、李秀成には忠王、李世賢には侍王、陳玉成には英王の位が封じられた。また、同時期に洪秀全の従兄弟であり、長く香港でキリスト教や西欧文化に触れていた洪仁玕が合流し、彼にも干王の位が与えられた。
しかし、江南大営側は勢いを衰えさせず、1860年はじめには北上して下関や九洑洲を占領し、天京のすぐ近くに迫った。これについて洪仁玕と李秀成が協議し、敵が必ず救うところを攻めるという「囲魏救趙[17]」の策を用いることにした。その為、李秀成は杭州を、李世賢は湖州を攻め、江南大営を誘い出し、うまく分散させることに成功。目的を達成したことを知った三軍はその州へ派遣された援軍が戻らないうちに江南大営を逆に包囲した。そして、4月から5月にかけて江南大営に攻撃を仕掛け、遂に陥落させることに成功する。参陣していた和春と張国樑はここでは難を逃れたものの、間もなく死亡する。
またもや江北・江南大営は突破され、天京の包囲が解かれることになり太平天国はとりあえずの危機を脱した。
蘇州・上海進出と英仏との交渉
次の作戦として、太平天国軍は湘軍に包囲されている安慶の解放を計画した。そのために蘇州へ進出し、上海[18]に居るヨーロッパ人から汽船200隻を購入してそこから長江を遡って武漢を攻め、安慶も解放するという形で固まった。
1860年5月に李秀成が東進して、6月に上海のある蘇州を占領。そこから英仏人にコネがある洪仁玕を通じて交渉を持とうとしていたが、英国公使のブルースは難色を示していた。当初、英仏は太平天国に対し中立の立場を取っており、むしろキリスト教徒による反乱ということで一部の外国人は好意的に見ていたのだが、もはや情勢は様変わりしてしまっていた。
これより少し前の1856年より第二次アヘン戦争とも呼ばれるアロー戦争で、清は英仏と交戦状態にあった。1857年12月に広州、1858年5月には天津にまで攻め上がり、一旦天津条約[19]という形で決着がついたものの、英仏の北京入城時に紛争が発生したことから清が批准を拒否し、戦争が継続した。1859年には太平天国軍とも戦ったセンゲリンチンの活躍で英仏軍を天津から追い払うという善戦も見せていたが、1860年には報復の軍によって北京に迫られ、円明園も略奪されるという大敗の憂き目にあっていた。
しかし、既にこの時点で戦争のケリはほぼついており、どういう条件で和平を結ぶかという段階にまで来ていたため、今更清を刺激するようなことを英仏の外交筋は望んでいなかった。また、太平天国側が対等な交渉を認めず、古の朝貢貿易のような高圧的な態度をとったこともそれに拍車をかけた。
これらの理由が積み重なってヨーロッパ諸国は清を助けて恩を売り、利用して利益を得ようとする方策に転換した。これらの流れもあって、アメリカ人のウォードが外国人傭兵部隊「洋槍隊」を組織しようと、自らの居留地を守るために行動を開始した。李秀成は8月に3000人の兵を率いて上海に赴き、「黄旗を掲げれば攻撃しない」と通告したが、そんな相手の権威を認めるような事をするはずがなく、英仏の現地軍が出動して太平天国軍に発砲した。李秀成は反撃せずに撤退し、ヨーロッパ諸国との交渉が極めて困難な事を思い知らされることになった。流石にこの発砲事件については本国でも批判の声があがったものの、大勢がかわることはなかった。
1860年10月に天津条約の批准に加えて、清による天津開港や、九竜半島南部の英国への割譲、賠償金支払いなどを定めた北京条約[20]が締結され、アロー戦争の幕が閉じられた。すると、もはや清と敵対する理由がなくなったヨーロッパ側は太平天国側に更に強硬な態度をとり、1861年3月に英国海軍司令のホープにより「上海から50km圏内に立ち入るな」という要求を行い、太平天国側はこれを飲んだ。外交を担当していた洪仁玕の威信は失墜し、立場を失っていくことになる。そしてこの年に中国人兵士も含んだ5000人規模の外国人部隊「洋槍隊」が組織され、太平天国の新たな難敵となった。
安慶陥落~交渉決裂
李秀成の軍は当初目標であった汽船や武器購入などの条件を諦め、3万の兵を率いて安慶へ向かった。しかし、英国参事官であり、後に日本とも公使として関わりを持つパークスが「漢口は開港地であるので攻撃しないでいただきたい」と要求したり、戦死した曽国華から湘軍の指揮を引き継いだ曽国荃の攻撃を受けるなど妨害が相次ぎ、諸王との連絡が錯綜したことから安慶どころか前提となる武漢攻撃すらままならず、兵を引くことになった。また、李秀成の軍は規律が悪く、各地で暴行や略奪を繰り返したためそういう意味でも評判を落とすことになった。
安慶は長江を行き来する外国船の食糧を購入して飢えをしのいでいたが、曽国藩が清朝を経由して英国に対してこれをやめさせるように言うと、それもなくなった。結果、1861年9月に安慶は陥落し、長江中流域を太平天国は完全に喪失することになった。
しかし、負ける一方でもなく、1861年5月に李秀成と李世賢によって浙江省への侵攻がなされ、中央部と東部を占領した。江蘇省と並んで清の経済の心臓部であるこの地域を占領したことはそれなりの意味があった。だが、もはや建国当初の理想を失い、即物的な思考・行動に走る兵が多く、かつて高い規律を誇った太平天国軍も民に忌み嫌われてきた清軍や賊徒と大差がなくなってきていた。李秀成や李世賢などの諸王もその崩壊を押し留めることが出来ず、支配地における民衆の強い抵抗が顕在化しはじめた。
そして、既に絶望的であった外国との交渉も更に追い打ちをかけるような話が相次いだ。1861年8月に咸豊帝が崩御すると、新たに同治帝が即位したが、幼帝であるため咸豊帝の弟である恭親王奕訴と、悪名高い西太后が実権を握った。奕訴は「太平天国は心腹の害だが、欧米列強は肢体の患に過ぎない」として、ヨーロッパと協力して太平天国を潰すことを明らかにした。
これに欧州は歓迎の姿勢を見せ、先程の上海租界の立ち入りが期限を迎えると、1861年12月に英国は無期限に立ち入らないようにすることを要求し、また通商が拡大していた鎮江・九江・漢口にも近づかない事や、英国国旗を掲げた清国船の自由航行も求め、太平天国軍が新たに進出した寧波などの都市についても租界地に設定し、そこにも攻撃しないことを求めた。早い話が、「ウチのシマに入ってきたら容赦しないからな」ということである。太平天国側はこれを拒絶し、事実上太平天国は新たにヨーロッパ諸国をも敵に回すことになった。
常勝軍・淮軍の登場
1862年に入ると李秀成は再び上海を攻撃した。すぐに強襲はせず、南北に包囲網をつくってジリジリと締め上げる方策であったが、2月になって正式に英仏が清の反乱鎮圧支援を表明すると、くだんの外国人傭兵部隊の装備が増強された。指揮官のウォードは最新式の銃・エンフィールド銃を用いて上海に迫る太平天国を打ち破り、防衛に成功した。これを称えて清朝より「常勝軍」の名を授けられた。
4月には曽国藩の弟子である李鴻章が安徽省にて新たな軍の編成を終え、「淮軍」を組織。彼らもすぐに長江を経由して上海に向かい、撃退に寄与した。5月には常勝軍と同じような外国傭兵部隊である常安軍・定勝軍などが寧波で戦い、これを奪還した。これを以て太平天国は外国との窓口を全て失うことになった。しかし、指揮官のウォードはその後の追撃戦である慈渓の戦いで戦死し、常勝軍の司令官はパージェヴィンを経て1863年5月に英国陸軍少佐のゴードンへ引き継がれた。
1862年5月からは淮軍や常勝軍は長江を遡って天京郊外に進出した。南に10kmほどの地点ある雨花台を占領し、太平天国軍は橋頭堡を明け渡す形になり、ここから南京攻防戦が開始される。曽国荃らの湘軍も加わり、情勢は太平天国に厳しかった。李秀成らが救援に向かおうとするも、この頃より慢性化した王号の濫発[21]により指揮系統が混乱したり、長江を押さえられた事による食糧不足が祟って失敗した。かつて南京から打って出て湘軍や清軍を壊滅させた頃の勢いは、もはやなかった。
その後、李秀成の軍は洪秀全からの無茶な命令で軍をすり減らし、1863年末に常勝軍の手で蘇州が陥落したことで事実上壊滅した。1864年5月には江蘇省最後の拠点であった常州も陥落し、大勢が決したとみたゴードンは常勝軍を解散し、一部を淮軍に編入した。
江西省で戦っていた李世賢は、李秀成に使者を出し、洪秀全と手を切って共に戦うことを要請したが、李秀成は断り、僅かな部下を連れて南京へ向かう。李世賢はその後も翌年に広東省で殺害されるまで各地で転戦を続けた。
太平天国の最期
1863年12月に李秀成はなんとか天京に入城し、洪秀全に対して湘軍や淮軍の包囲や攻撃は激しく、補給も援軍も望みはないから、脱出して再起をはかるべきと提言した。しかし、もはや極限状態にあった洪秀全はこれに激怒して「朕は天下万国一人の真の主である。何を恐れることがあろうか。朕の天下は鉄壁であり、朕の天兵は水よりも多く、曽国藩如き恐れるに足りない!」とこれを撥ねつけた。李秀成はその後、天京から出ようと決心したが、周囲に止められて南京防衛の指揮にあたった。
しかし、情勢は最早末期的であり、1864年に入ると全ての補給手段が絶たれて、天京の食糧は尽きようとしていた。洪秀全は飢えに苦しむ人々に雑草を指し示して甜露[22]を食せと命じ、自らも雑草を食べ続けた。李秀成は止むなく自ら蓄えていた食糧を放出した上で城門を開き、十数万人を城外に逃れさせた。
5月下旬に遂に雑草にあたったのか洪秀全は倒れ、服薬を拒否し、「朕は今から昇天し、天将天兵を連れて天京を守る」と詔を発し、その数日後の6月1日に亡くなった。
洪秀全の死後は長男の洪天貴福が跡を継ぐが、最早敵の攻勢を押し留める術はなく、残った3000の兵も飢えのために次々と倒れていった。7月19日に湘軍は南門の地下に坑道を掘って城門を爆破。そのまま攻め入って天京は陥落。太平天国はこれを以て滅亡した。
陥落後の南京は湘軍や淮軍の手により次々と略奪がなされ、指揮官の曽国荃は略奪した財宝を故郷に持ち帰って自らの豪勢な屋敷を建てた。さすがにこれは曽国藩も激怒したが、そもそも勝利して官位を得、財産を築こうと発破をかけたのは彼である。曽国藩は洪秀全の死体を捜索させ、7月30日に発見した。遺体にはほとんど肉が残っておらず骨と皮のみになっていたが、その翌日の8月1日に引きずり出した遺体を剣で切り刻んだ後、火葬し、遺灰や遺骨を砲弾に詰めて次々と撃ち出した。洪秀全の痕跡をこの世から消し去り、未だ残る反乱軍に一切の証を残させない為である。
李秀成は洪天貴福を連れて脱出し、幼君は愛馬を譲って脱出させたものの、自らはやがて湘軍に捕まった。李秀成は曽国荃の前に引き出され、5万字に及ぶ供述書を書かされた後、処刑された。清の国法では最大の罪である皇帝への反逆に値するため、本来ならば凌遅刑に処されるところであったが、曽国藩のはからいによって斬首に減刑された。
洪天貴福は江浙地方を転々とした後、李世賢のもとに向かおうとしたが、その途上で10月に清軍の手で捕縛される。10月25日(新暦11月18日)に凌遅刑に処され、1400回切り刻まれて絶命したという。当時彼は14歳であり、清朝の長い歴史でも一番若く凌遅刑に処された人物として記録が残る。
太平天国の乱そのものは南京陥落により終焉したが、これに呼応して蜂起した反乱勢力がまだ多く存在し、生き延びた諸王がそれらに合流したことで内乱は継続した。農民主体の捻軍などはその代表格で、1865年5月には高楼寨の戦いでセンゲリンチンを敗死させるなど、清軍の手を焼かせたが、主に李鴻章率いる淮軍の活躍により1868年に完全に鎮圧された。
政治・社会
太平天国は清朝の支配・伝統を否定し、”あるべき中国”への回帰を目指した。
中央集権を否定して、諸王を封じたのもその一環である。太平天国は南京占領後に、永安時代に発した制度に則って各王の宮殿を設定し、それぞれに権力をもたせた。だが、東王・楊秀清の権力が増大してやがて瓦解してしまったことは先程記述したとおりである。
天朝田畝制度は特に中国社会の土地制度を根本的に変革する制度であった。周代の井田法や、北魏にはじまり唐代に引き継がれた均田制を理想として、土地を均等にわけることによる平等社会を実現しようとしたのである。貨幣経済も浸透していたとはいえ、大半の清朝の民にとって土地は財産の基盤であったからである。しかし、実際のところは安定した統治期間が短かったこともあり、実行に移されることはなかった。
食糧制度としては聖庫制度が運用された。これは、収穫した食糧を折半し、それを全て聖庫と呼ばれる公有の倉庫に納入する制度であった。他にも財産や衣服なども全て聖庫に納め、必要に応じて分配された。収穫物の大半をとられていた小作人からすれば喜ばしいものだったが、地主や有力者からすればとんでもない制度であった為、逃亡するか、団練(後に郷勇)を組織して抵抗するかの選択を迫られた。だがこれも次第に機能しなくなり、末期では兵糧の為に略奪がおこなわれるようになった。また、征西などによって支配地域が増えると郷官と呼ばれる地方官の制度が置かれ、これには地元の有力者(董事)が任じられた。事実上の地主として振る舞い、兵糧のために小作料も徴収されて、天朝田畝制度の理想とは矛盾する実態があった。
他にも、辮髪を否定して長髪にすることを認めたり、民はみな上帝の大家族であるとして儒教を否定し、男女平等も徹底して行った。また、清朝におけるもう一つの因習である纏足も禁止された。
科挙は継続して行われた。内容は当然儒教ではなく、上帝教の教義から出題された。1854年に実施された湖北省の郷試では人材不足からか、8割の受験生を及第させて、800人が挙人となり、太平天国の行政機構に組み込まれた。また、1851年に行われた科挙では史上唯一女性も受験資格が得られる、女科が実施された[23]。いうまでもなく男女平等の一環であり、200人の受験者に対して何人かの女性が及第して各王府へ配属された。しかし実際のところはほとんど王府の右筆(布告や命令書などを書く人)や秘書として使われる程度で重用はされなかった。
ちなみに科挙については、一般的には男性なら全員受けられるという風に理解がされがちだが、実際のところ明清代における科挙においては儒教の試験であるという性質上、それにそぐわない人物は最初から受験資格が排除されていた。例えば、召使いや奴隷など身分的に自立していない人間は受験できないし、芸者や風俗業など賤しいとみなされた職業に就いている人間は子々孫々に至るまで受験資格が得られなかった。だが、太平天国における科挙については少なくとも男性ならば全く制限がなく受験ができた為、そういう意味での平等は徹底したといえる。
同時代における他の反乱
歴史の項目ではあまり取り上げなかったが、太平天国が起った当時、清朝に不満を持っている勢力は他にも存在した為、数々の反乱が起こっていた。
- 捻軍→南京条約などによる経済不安から発生した農民主体の反乱。河南・河北・山東・安徽省など華北地方で主に発生し、太平天国の乱にも呼応して清朝を大いに苦しめた。1868年に淮軍により壊滅。
- ヤクブ・ベクの乱→東トルキスタンで発生。回民蜂起を取り込んで一時は清朝の西北一帯を支配。英露間のグレート・ゲーム[24]にも一枚噛んだりしたが、左宗棠率いる湘軍より1873年に壊滅する。
- 回民→雲南省で発生したパンゼーの乱と、陝西・甘粛省で発生した陝甘回変の2つがある。回とはムスリムを意味し、清朝による弾圧を背景にして決起した。1873年まで継続し、やはり左宗棠により壊滅。
- 小刀会→秘密結社天地会の分派。厦門や上海において太平天国との連携もはかりながら蜂起するが、2年ほどで清軍に鎮圧され、失敗。太平天国へ合流する。
- ミャオ族→中国南西部に住む少数民族。改土帰流[25]という同化政策に反発して1855年に張秀眉に率いられて蜂起(咸同起義)。1873年に王文紹率いる郷勇の楚軍に鎮圧され、ミャオ族の3分の2が殺害された。
このように、満州以外のほぼすべての地域で反乱が起こっているという状態であり、清朝は対応に追われることになる。
また、回民反乱の鎮圧には湘軍の幕僚として功を建てていた左宗棠が太平天国の乱鎮圧後より、湘軍から独立して自ら楚軍(楚勇)を率いて鎮圧を行った。太平天国の乱鎮圧も含めて名声を高めた彼は清朝の重鎮となり、李鴻章と共に清朝の近代化の推進役となる。
後世への影響
太平天国の乱は2000万人といわれるおびただしい死者を出す凄まじいものであった為、見方によっては世界最大の宗教戦争と見られることもある。一方でその後の中国史にも影響を与えた。
洪仁玕が1859年に政治改革の建議書として著した『資政新編』には、
- 他国との交渉では高圧的にならず、差別的な表現も用いないで対等な相手として扱うこと
- 外国と通商を開いて、キリスト教の布教を認め、技師の内地での活動を認めること
- 銀行の設立や、その出資による鉄道や汽船航路の整備・鉱山開発による国庫収入の増収を図ること
といった先進的な近代化政策が著されており、数年にわたる彼の香港滞在によって得た知見がふんだんに盛り込まれていた。
残念ながら守旧的な太平天国の諸王には全く理解されず、取り上げられることはなかったが、その精神は洋務運動や我が国の明治維新に引き継がれていった。
英仏の支援のもと出来た、常勝軍や、彼らが売り払った武器に支えられた湘軍や淮軍は敵としてでなく、味方としてその力を痛感させた。曽国藩だけでなく、19世紀末にかけての清を支えた李鴻章や左宗棠といった開明的な官僚たちにもその印象を強烈に残し、洋務運動など近代化推進の原動力にもなった。結果的に上手く行かなかったとは言え、その原点は太平天国の乱にあると言うべきだろう。なお、彼らの作った湘軍や淮軍は乱後も解散されず、特に淮軍に関しては北洋軍閥として20世紀中国の、そして我が国の中国進出にも深く関わる事に成る。
太平天国の根本がキリスト教にあった影響で、郷紳たちや読書人たちへのキリスト教や西洋文化への恐怖心が強くなっていったことも見逃せない点である。これが長く尾を引いて19世紀末にはキリスト教・西洋文明への排撃として仇教運動が発生し、諸外国との軋轢が強まって清を事実上破滅させる義和団戦争へとつながる源流となった。
また、太平天国が滅亡した2年後、1866年に孫文が生まれる。言わずとしれた辛亥革命を起こして清朝を倒した革命家で、彼は洪秀全を敬い自らを「第二の洪秀全」と自認したという。彼は太平天国の乱を実によく研究し、そのやり方を上手に取り入れて清朝を遂に倒したのである。
日本においては通商を開いていた、長崎を通じて太平天国の乱の情報が入ってきたが、その評価は時代によって様々であった。情報が詳しく入る前までは指導者の洪という姓[26]、滅満興漢というスローガンや、辮髪の拒絶などから明朝の後裔が起こした反乱だと思われていたほどである。やがて清から詳しい書物が入ってくると、知識人を中心にキリスト教への拒絶感や、太平天国の蛮行から否定的な評価が相次いで起こった。しかしこれは、辛亥革命と同時に中国と同様に[27]持ち直していった。
直接の影響としては、蘇州が陥落した際に長崎の唐人屋敷では避難民を受け入れたという記録が残っている。
他にも、麻雀(近代麻雀)の普及にもこの太平天国の乱が深く関わっているとされる。太平天国の乱はこの通り長期に渡った内乱なだけあって兵士たちも常に戦うわけではなく、暇つぶしや賭博の手段としての遊戯を求めていた。その一つとして麻雀が遊ばれていたのだが、陳魚門(陳政鑰)という浙江省出身の清朝側の官吏が地域ごとでバラバラになっていたルールを整理[28]し、現代まで伝わる麻雀を形づくったとされている。そのため、彼の出生地である寧波には麻雀起源地陳列館が建てられている。
参考書籍
- 太平天国 ― 皇帝なき中国の挫折 (菊池秀明, 岩波書店, 1862)
- 曾国藩 ― 「英雄」と中国史 (岡本隆司, 岩波書店, 2022)
- 李鴻章 ― 東アジアの近代 (岡本隆司, 岩波書店, 2011)
関連項目
脚注
- *当時の清でキリスト教は禁教となっていたが、南京条約の結果割譲した香港や、開港地では清の法律は及ばなかったためそこを経由してキリスト教が国内に入ったのである。
- *洪秀全自身も広州にいたロバーツという宣教師に教えを請い、入信のための洗礼も受けようとしていた。当時の彼は貧しかった為、洗礼後も神学を学ぼうと生活費のために奨学金を申請したところ、金目当ての入信を嫌ったロバーツは激怒し、洗礼を拒否している。
- *いわゆる知識人を広くさす言葉だが、彼らの中には洪秀全のように科挙に落第し続けて燻っている層も数多くいた。その中から反乱で逆転を狙おうと目論む者も出た訳である。
- *清は建国当初はキリスト教には融和的であったが、典礼問題をきっかけに規制の方向に動き、雍正帝の時代にあたる1723年に布教が禁止された。
- *プロテスタントは聖書を重視したため、宗教画や偶像を否定し、それらを破壊した。上帝会もそれにならって、中国古来からある孔子廟や道家の寺院などを破壊した。ちなみにこの為洪秀全はじめ諸王たちの肖像画は一切残されておらず、今伝わっているのは想像画のみである
- *これは12世紀に同じ満州(女真)人の侵略者であった金に対して、漢人たちが紅巾を巻いた故事に由来するしきたりで、元末に起こった紅巾の乱や、近代中国における共産党軍の通称、紅軍など長きにわたって受け継がれる伝統である。
- *清の建国者ヌルハチが創始した、満州人による清の正規軍。四色の旗と縁取りの有無の八種類の旗で識別したことからそう呼ぶ
- *漢人による清の正規軍で、投降した前王朝の明軍の旗色からそうよばれる。兵数は60万人程度と多く、治安維持や警察としての役目を持った。
- *太平天国軍を指す
- *いわゆる参謀ポジションの軍師とはやや異なり、神意を汲み取って吉兆・凶兆を占い、君主に助言を行う本来の使われ方に近い意味合いの軍師である。
- *洪秀全は3歳下とほぼ同年代でしかも先祖は客家出身であった。だが、彼と違い27歳で科挙に及第し、高級官僚の道をたどったという点で対照的である。ちなみに乱が発生したときは母の葬儀にでており、たまたま郷里に帰っていた。
- *とはいえ近郊に迫った報に接した北京の宮廷は大騒ぎになり、住民だけでなく宮中でも避難に向けた準備がされた。
- *粤とは広東、広西省を指し、そこから出た匪賊を意味する。曽国藩は郷土で集めたこの兵に対し、異郷の人間であることを強調して戦意を煽ったのである
- *辮髪を強制していた清に反発して、太平天国の人々は髪を伸ばしていた為、同胞をこう呼んでいた
- *当時の清の皇帝。金田村で蜂起が起きる直前に即位し、アロー戦争や太平天国への対処に忙殺される中、1861年に崩御した。
- *国難の時に皇帝から臨時に任命される全権を委任された大臣。有名なのではアヘン戦争前にアヘン取締で名を馳せた林則徐がいる。
- *兵法三十六計の第二計に書かれている策。斉の武将・孫臏が提言したとされる策で、一気に大きな敵を潰すより、分散させて叩いたほうが良いという趣旨の策。
- *南京条約により1842年に開港。英仏をはじめとするヨーロッパ人が多数居住・投資し、金融都市として基盤を整えつつあった。
- *外国公使の北京駐在、キリスト教布教公認、十港の開港、賠償金支払いを求めた、清と英仏露米の間で結ばれた条約。発効はされたものの、1860年の北京条約まで批准はなされなかった。
- *この翌月に英仏との仲介を取り持ったロシアとの間でも結ばれ、沿海州を割譲した。ロシアはこれ以後ウラジオストクをはじめ、極東開発を推進していく。
- *物資や兵糧の不足による戦意の低下を防ぐための措置だったが、62年秋に30人に増えたのにはじまり、63年初めには90人、売官の連鎖を引き起こしてズルズルと増えていき最終的には2700人に王号が封じられた。
- *マナを意味する漢語。旧約聖書の出エジプト記に出る、モーセらが荒野で飢えてた時に神から授けられた食べ物。
- *ただしこれについては実施が確認できる有力な一次史料が存在せず、実施自体されていないという説も根強い
- *19世紀後半における英国とロシアの間における中央アジアの勢力圏争いをチェスに見立てた用語。1907年の英露協商で一旦終結する
- *清中期の雍正帝の時代に盛んに行われた、地方有力者に治めさせず、中央から流官とよばれる官僚を派遣して統治する政策。地方の影響力を弱め、中央に従わせる意図があったが強く反発を受けた
- *初代皇帝の洪武帝から
- *ただし、それでも深刻な被害を受けた江南地方では、長く太平天国に対する批判が根強く残った
- *雀牌をいわゆる骨牌にしたり、バラバラだった字牌の整理、チーやカンなどの鳴き、場所をサイコロで決めることなど
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