概要
正式名称は「いずもおおやしろ」だが一般的には「いずもたいしゃ」と呼ばれることが多い。明治維新以降の近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。なお、出雲大社という名前は明治時代になって改称した呼び名であり、それ以前は杵築大社(きづきのおおやしろ)と呼ばれていた。
境内は日本海に突き出た島根半島の西端に位置し本殿を中心に境内外合わせて23棟の摂社・末社が祀られている。現在の御本殿は1744年(延享元年)に再建されたもので1952年(昭和27年)に国宝に指定された。そのほかに21棟の社殿と1基の鳥居が重要文化財に指定されている。参拝時の柏手が四拍手、注連縄の向きが左本右末といった一般的な神社と異なる特徴を持つ。(極少数ではあるが上記の特徴を持つ神社は他にも存在する)
現代においても皇室の者といえど本殿の中に入れないというしきたりを守り続けている。しかし遷宮によって御神体が仮殿に移されている間は本殿の入口までであれば御本殿特別拝観の期間にのみ入ることが可能であった。
2013年10月17日には平成の大遷宮に併せて、出雲大社の境内に相撲の開祖とされる野見宿禰(のみのすくね)を祀る24番目の摂社「野見宿禰神社」が新たに創建された。
創建伝承
創建は神代とされており、日本最古の歴史書である古事記を始め日本書紀や出雲国風土記等に出雲大社の創建に関わる記述が見られる。 それによると大国主が国譲りの際、天津神に葦原中国を譲るための交換条件として「天孫の住まう住居のような太く大きな柱と、天に届くほどの高い千木がそびえ立つ宮殿を建ててほしい」と要求したという。これが出雲大社の起源と見られている。
国を譲られた側の天津神が、国を譲った側の大国主のために宮殿を造営したという点はどの書物にも共通してることから、出雲大社の造営は古代日本の国家的事業であったことが窺える。
建築様式
現在の社殿
出雲大社の建築様式は「大社造(たいしゃづくり)」と呼ばれ、伊勢神宮に代表される「神明造(しんめいづくり)」と並んで日本最古の建築様式とされている。古代の高床式の住居、もしくは宮殿から発展したものと考えられており切妻、妻入の構造と反りのある曲線形の屋根が特徴的。柱は九本の柱が田んぼの田の字型に並び、中心には心御柱(しんのみはしら)と呼ばれる他の柱よりも一際大きな柱がそびえ立つ。
荒垣・瑞垣・玉垣の三重の垣根に守護された本殿は日本の数ある神社建築の中で最も大きな社殿を有し、その高さは24mに達する。総面積約180坪、厚さ約1mの大屋根には総重量40t、約60万枚もの檜皮(ひわだ:ヒノキの樹皮)が敷き詰められている。
本殿内部は約60帖の広さがあり上段と下段に分かれている。上下段とも床には一面に畳が敷かれ、上段の手前には天地開闢の際に現れた五柱の別天津神(とこあまつかみ)を祀る御客座がある。そして、上段の最深部には内殿が置かれその中に大国主の御神体が鎮座する構造となっている。
天井絵「八雲之図」
本殿内部の天井には「八雲之図(やくものず)」と呼ばれる色彩豊かな雲が描かれている。しかし八雲と呼ばれるのになぜか7つしか雲が描かれておらず、うち一つの雲は逆の方向に向かって流れていたりと謎を秘めた点が多い。
中央付近の一番大きな雲には唯一色の黒い雲が描かれてる。この黒雲には描かれた時に「心入れ」という秘儀が施されたと伝えられているが詳細は不明。
古代の社殿
平安時代に編纂された書物「口遊(くちずさみ)」や出雲国造家が所有する秘図「金輪御造営差図(かなわごぞうえいさしず)」によると古代の出雲大社の本殿は現在の2倍の高さにあたる約48mの壮大な神殿であったとされている。しかし、それらの記録を証明するための物的証拠が見当たらず、今までは単なる想像や伝説の類だとされてきた。(上古には更に倍の高さである96mとも言われるがこちらの説は推測の域を出ない)
去る2000年(平成12年)春、境内の地中から杉の巨木3本を金輪で束ねた直径約3mにも及ぶ巨大な柱が発掘された。柱の建てられた年代を測定したところ、この柱は鎌倉時代中期に造営された本殿のものである可能性が高まった。また、大林組のプロジェクトチームによる検証の結果、48mの巨大神殿は当時の建築技術でも造営は可能であるとの結論が下された。
古代の本殿は記録に見られるだけでも5~7回も倒壊と造営を繰り返しており、当時の日本人が巨大神殿を維持しようと奮闘した姿を窺い知ることができる。
祭神
主祭神
大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)
日本神話において葦原中国の国土を開拓し国家の礎を築いた神。数多くの神話と神名を有する国津神の長。
国造りの偉業を成し遂げた後天孫に国を譲りその代償として天日隅宮(あめのひすみのみや:出雲大社の別称)を造営させた。主に国土守護神、農業神、商業神、福の神、酒造の神、医療の神、縁結びの神として信仰されている。
須佐之男尊(すさのおのみこと)
荒ぶる神。高天原より地上に降臨し八岐大蛇を退治した出雲国の祖神。大国主の6代前の先祖とされる。
中世~17世紀頃の出雲大社では大国主と須佐之男を同一の神としていた時代があり、これにより須佐之男が主祭神とされていた。現在は本殿の裏手と禁足地・八雲山の間に鎮座する式内社「素鵞社(そがのやしろ)」に祀られている。
御客座五神
天之御中主神(
あめのみなかぬしのかみ)
別天津神の中でも最も尊いとされる造化三神(ぞうかさんしん)の一柱。
日本神話において一番はじめに現れた神であり、宇宙そのものを神格化した神とされる。
高御産巣日神(たかみむすびのかみ)
造化三神の一柱で二番目に現れた神。
国譲りの際に天照大神と共に天津神を統率し天孫降臨を実現させた。
神産巣日神(かみむすびのかみ)
造化三神の一柱で三番目に現れた神。
大国主が兄神に殺された際に二柱の女神を遣わして大国主を蘇生させた。
宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)
別天津神の一柱で四番目に現れた神。
葦(あし)が芽吹くようにして生まれたとされる。生命を神格化した神。
天之常立神(あめのとこたちのかみ)
別天津神の一柱で五番目に現れた神。
天空、あるいは高天原そのものを神格化した神とされる。
大国主と別天津神の関係
出雲大社では主祭神の大国主とその先祖にあたる須佐之男、そして二柱と関係の深い神々が祭られている。
しかし一番重要な御本殿内部に祭られている上記の五柱の神々のうち天之御中主神、宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神の三柱については、日本神話の中では大国主と一切の関連性を見出すことが出来ない。
一説では国津神に属する大国主を天津神に属する五柱の別天津神が見張っているためという意見もあるが、国譲り神話において活躍した天照大神や建御雷神を差し置いて、神話上全く関わりのない別天津神の三柱を見張り役に据えるというのは少なからず疑問が残る。
逆に、高御産巣日神、神産巣日神の二柱は大国主と深い関わりを持っている。高御産巣日神は葦原中国に遣いの神を送って国譲りを迫った神として描かれており、敵対関係を色濃く残す神である。一方の神産巣日神は大国主の窮地を救った神として描かれており、二柱の女神を遣わして大国主の命を救ったほか、少彦名命(すくなひこな)という小人神を遣わせて大国主の国造りを大きく後押しした。
御神体
日本有数の古社であるが、その御神体は秘匿とされ今もなお明らかにされていない。
しかし、御神体の詳細を伝える記録として以下の2つの文献が残されている。
- 平安時代の貴族・源経頼(みなもとのつねより)が記した日記「左径記(さけいき)」によると、1031年(長元4年)10月17日に御本殿が三度の光ののち震動し倒壊、散乱した材木の上に七宝の筥(はこ)が露わになっていたと記されている。
- 出雲松江藩の逸話を中心に纏められた郷土史「雲陽秘事記(うんようひじき)」によると1638年(寛永15年)松江藩の初代藩主・松平直政が出雲大社に参拝した際に国造の制止を無視して御神体を見たところ、御神体は九穴の鮑(あわび)で、それがたちまち10尋(約18m)の大蛇に姿を変えたため直政は恐れ戦いて退出したと記されている。
この他にも剣や鏡、勾玉といった説や、本殿の背後にそびえる八雲山を御神体とする説も存在する。
2008年(平成20年)に執り行われた「仮殿遷座祭(かりでんせんざさい)」では、御神体が鎮座する神輿を十数人の神職が担いで運び出す様子が撮影された。このことから出雲大社の御神体は人一人の力では持ち運びが不可能なほど大きい、あるいは重いものではないかと推測されている。
本殿内部の御神体は参拝者に対面せず西を向いた状態で安置されている。このため参拝者は本殿の正面から参拝した場合、必然的に御神体の左側面を拝む形となる。従って御神体の正面から参拝したい場合は瑞垣の西側に回りこむ必要がある。
北
○‐‐◎‐‐○ ‐‐ 側壁
¦ ←☆¦ ― 板仕切
○ ●―○ ○ 側柱
¦ ¦ ◎ 宇豆柱
○‐‐◎ ○ ● 心御柱
↑ ☆ 御神体
入口
出雲国造家
出雲大社の祭祀は創建以来、出雲国造家(いずもこくそうけ)が務めている。本来、国造(くにのみやつこ・こくぞう)とは大宝律令が制定される以前の日本各地の豪族達に与えられた役職のことをいい、現代の日本では既に廃止されている制度である。しかし出雲国造家を始め、いくつかの国造は制度が廃止された現代においても国造を名乗り続け、その系譜を今に伝えている。
出雲国造家の祖神は天穂日命(あめのほひのみこと)といい、天照大神の第2子にあたる神である。この神は国譲りの際に高天原から一番最初に地上へ遣わされたものの、敵方の大国主に心服してしまいそのまま葦原中国に居ついてしまった神様である。国譲りが成就した後は高天原に復命せず、地上に残って大国主に仕えた。
ちなみに天照大神の第1子は天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)といい、系譜を辿れば現在の現在の皇室に続く神様である。このため出雲国造家も、系譜を遡れば皇室と同じく神代より続く由緒正しき名家ということになる。
また、皇室が南北に分かれた南北朝時代には、時を同じくして出雲国造家も2つの家に分裂した。
第54代出雲国造・出雲孝時(いずものりとき)の次男・孝宗(のりむね)と三男・貞孝(さだのり)は次期国造の座を巡って対立。一時は内乱状態にまで発展した。事態を重く見た当時の出雲国守護代・吉田厳覚が孝宗・貞孝の両名を説得し、出雲大社の祭事や土地を始め、あらゆる条件を等分することで和解させた。
これ以降、孝宗は「千家(せんげ)」姓を、貞孝は「北島(きたじま)」姓をそれぞれ名乗り、幕末に至るまでの約500年の間、出雲大社の祭祀を分担して行った。なお、明治時代以降は千家家一族が祭祀を執り行っている。
神在月信仰
古来より日本では旧暦の10月を「神無月(かんなづき)」と呼んでいる。しかし、島根県東部の出雲国では八百万の神が出雲に参集し神議(かむはかり)をする月、即ち「神在月(かみありづき)」と呼び、期間中は出雲国各地の神社で神在祭が行われる。この信仰は、大国主が国譲りの際、天津神に現世(人の世界・目に見える世界)の支配権を譲渡し、自身は幽世(神の世界・目に見えぬ世界)の支配者となったことに由来する。
この信仰は、元々は全国的に認知されていたわけではなく出雲国内の神社とその周辺地域のみで行われていたと思われる。しかし、中世から江戸時代にかけて出雲の御師が日本全国へ布教活動を行い、現在では全国的に認知されるようになった。
出雲大社の神在祭は毎年旧暦の10月10日~17日の間行われる。また、神在祭の期間中は本殿の東西に鎮座する神々の宿泊施設「十九社」の扉が開放される。
大遷宮
遷宮(せんぐう)とは神社の造営や修理を行う際に御神体を別の場所に移すことをいう。
伊勢神宮に代表される「式年遷宮」は20年に一度社殿を新たに造営するが、出雲大社の場合は本殿が国宝に指定されているなどの理由から、社殿を新たに建て替えることはせず傷んだ箇所の修理するに留まる。
上記に述べた通り、古代の出雲大社は三本の丸太を束ねた九本の柱が林立する当時の建築技術ではありえない特異な構造で建てられていた。しかし、巨大な神殿を支える土台は日本古来の掘立柱方式であったため安定性に欠け、過去には幾度となく倒壊した。こうした倒壊→造営の繰り返しが後の遷宮へと発展していったと見られている。現在では約60年という長大なサイクルで行われるため、出雲大社の遷宮は語句の始めに日本の元号を当てはめた「○○の大遷宮」という形式で呼ばれてる。
直近では2008年~2016年(平成20年~28年)に「平成の大遷宮」が執り行われ、大屋根の葺き替えや千木・鰹木の取り換えが約5年の歳月をかけて行われた。
アクセス
- 鉄道
一畑電車北松江線・電鉄出雲市駅→川跡駅(乗り換え)→一畑電車大社線・出雲大社前駅→徒歩7分
東京駅~山陰本線・出雲市駅:
新幹線(岡山駅経由)→特急やくも(約6時間半)/寝台特急サンライズ出雲(約12時間)
バス
高速バス:東京など各主要都市から山陰本線・出雲市駅まで運行
路線バス:出雲市駅→出雲大社(一畑バス)
飛行機
東京・大阪・福岡→出雲空港(出雲縁結び空港)
空港から出雲市駅までの路線バスの他、出雲大社直通バスも有る
自動車
山陰道出雲IC~約15分
八百万の神々御一行
稲佐の浜~神楽殿(龍蛇神先導、雨天時バス移動)~東西十九社
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関連項目
- 2
- 0pt