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東ローマ帝国(395年 - 1453年)とは、東西に分割統治されたローマ帝国の東側の領域、およびその帝国である。
5世紀に西ローマ帝国が滅亡して以降は東地中海またはバルカン・アナトリア両半島を中心に国土を形成した。ローマ文化を部分的に継承していたものの、本質的にはオリエント(中近東)からの影響を持つギリシア文化(ヘレニズム)圏かつキリスト教圏であり、絶えざる争乱もあって、7世紀を境に古代ローマとは異なる独自の文明へと変質していった。この帝国は12世紀に至るまで全ヨーロッパの羨望の的でもあったが、同時に嫉妬と侮蔑の対象でもあった。
東ローマ帝国は「中世ローマ帝国」とも呼称され、一般的にはビザンツ帝国やビザンティン帝国の名でも知られる。
基本データ | |
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正式名称 | ローマ帝国 Imperium Romanum Βασιλεία τῶν Ῥωμαίων |
国旗 | |
国章 | |
最大版図 | |
公用語 | ラテン語 (395年 - 629年) ギリシア語 (629年 - 1453年) |
首都 | コンスタンティノポリス (395年 - 1204年 / 1261年 - 1453年) ニカイア (1204年 - 1261年) |
政治 | 専制君主制(ドミナートゥス) |
宗教 | 正教会 |
皇帝 | アルカディウス(初代) ユスティニアヌス1世(527年 - 565年) ・最大版図を実現 ヘラクレイオス(610年 - 641年) ・帝国のギリシア化 バシレイオス2世(976年 - 1025年) ・最盛期を現出 アレクシオス1世(1081年 - 1118年) ・国家を再建 ミカエル8世(1261年 - 1282年) ・帝都奪還 コンスタンティノス11世(1448年 - 1453年) ・最後のローマ皇帝 |
人口 | 26,000,000人(565年) |
通貨 | ノミスマ |
概要
初めの頃、東ローマ帝国は高度な文化のギリシア、交易により富の泉となるシリア、穀物地帯のエジプトを所領していたことから、国力の基盤が西ローマ帝国よりも安定していた。そのうえ首都コンスタンティノポリスは交通・経済・文明の要衝地にあったため、中世ヨーロッパにおいては最大の貿易都市であった(また、当時の全ユーラシアにおいても常にトップ3に入るほどの巨大都市であった)。
文化面においては、キリスト教である正教会と古典ギリシア文化に、オリエント(中近東)やペルシャの文化を融合させたビザンティン文化を持っていた。このため東ローマ帝国は、西ローマ帝国亡き後の西欧に対し、先進文明圏としての優位を保っていたのである。ホメロスの物語がローマ建築の中を生き続け、イエスの教えが緋色の帝衣とともに燦然と輝く世界、それが東ローマ帝国であった。
古代ローマ帝国の政治や伝統を継承した東ローマ帝国は、6世紀には旧西ローマ領を有するばかりか、旧都ローマを奪還するに至る。文化面においても、帝国の地中海における影響力は絶大であり、欧州唯一の「皇帝を戴く国」であった。
が、ランゴバルド王国やフランク王国が興ると、せっかく得た旧西ローマ領は奪われてしまう。また7世紀にはササン朝ペルシャ帝国やイスラム帝国により領土を蝕まれ、経済基盤の東方を失うこととなった。さらにはスラヴ人やトルコ系のブルガリア王国によるバルカン半島への圧迫が加わり、帝国の領土はますます縮小した。
領土の縮小と文化的影響力の低下に伴い、帝国は古代ローマ帝国とは完全に別の存在となった。「ローマ帝国」と自称こそするものの、7世紀には住民の大半がギリシア人となり、公用語はギリシア語となっていた(629年)。また8世紀にはローマ教皇と対立し、9世紀初頭には神聖ローマ帝国(の原形)が成立したため、西欧諸国への影響力は低下した。
しかし9世紀中頃からは国力を回復させ、10世紀からは有能な皇帝が連続して現れ、政治・経済・軍事・文化の面で著しく発展した。そして11世紀にはギリシア正教の布教による東欧の文化圏形成、ブルガリアに対する驚異的な戦勝により、帝国は絶頂期に突入した。
しかし11世紀後半にもなると、相次ぐ内部の政争やセルジュークトルコに対する敗戦を機に、国力が大幅に低下した。12世紀初頭までには再び黄金の繁栄を取り戻すも、13世紀の初めには、第4回十字軍により帝都を奪われる始末。亡命政権ニカイア帝国により一応奪還には成功するが、すでに東ローマ帝国は「老いた帝国」であった。14世紀からはオスマン帝国に領土を侵食され続け、1453年、ついにとどめをさされてしまった。
この国の特徴
精神面にも大きな特徴がある。
- ローマの精神。古代ローマの政治・伝統・文化の尊重。「元老院」「パンとサーカス」など。
- ギリシア古典とキリスト教(ギリシア正教会)の融合によって独自の文化圏を形成。(⇒東欧)
- 「地上における神の王国の再現者」という理念。正教会的思想。
- 皇帝批判は「皇帝」が死んでから※。
※時の皇帝の莫大な権力に反して、過去の皇帝に対する批判はいつの時代も絶えなかった。皇帝の権力は絶対だが、権力が約束されているのは「生きている」時期に限った話であるため、過去の(すなわち死んで文句も言えない)皇帝に対しては平然と批評・酷評が行われた。余談だが、こうした風習や上述の異教徒との妥協が、西洋諸国には狡猾・卑怯に映ったのか、「ビザンツ人」という言葉はネガティブな意味となった。
東ローマの始まりについては意見の分かれるところだが、上述の最終分割の395年を成立とすると、実に1000年もの間、存続したことになる。「帝国が1000年間続く」という例は他になく(神聖ローマ帝国の出発点を800年のカールの戴冠とした場合は別だが)、この点において東ローマの特異性や魅力が存分に伺えるだろう。
東ローマの出発点
ディオクレティアヌス帝が四分割統治(テトラルキア)を行う頃には、すでに「帝国の東西」という概念はあった。
しかし実際に東ローマ帝国が誕生する切っ掛けとなるのはコンスタンティヌス1世(大帝)によるビザンティウム(後にコンスタンティノポリスへと改名)への遷都である。コンスタンティノポリスは最初のキリスト教都市であった。東ローマ帝国が「キリスト教によるコンスタンティノポリスの帝国」である以上、330年に行われたその遷都は実に大きな意味を持っている。歴史家の中にはその330年を東ローマ帝国ないしビザンツ帝国の始まりと見る者もいる。
ところが「東の帝国」なるものが実際に表れるのは395年。すなわちローマ帝国が東西分割された年である。その時点をもって東西のローマ帝国つまり東ローマ帝国と西ローマ帝国ができあがるのだが、もちろん双方ともに真新しい国家であるわけでもないし、ましてやローマの歴史が絶えたわけでもない。両国ともに歴とした「ローマ帝国」なのだ。とはいえこの時をもって東ローマ帝国が誕生したのは紛れもない事実である。
“帝国の変質”という点に東ローマの出発点を見出すのであれば、それは6世紀以降となる。ユスティニアヌス1世(大帝)の時代はまさにそうであろう。彼の徹底的な中央集権、独裁政治は古代ローマ帝国とは一線を画しているし、何よりそれは「古代ローマ帝国からの脱皮」に他ならない。皇帝専制を基本とする東ローマ帝国だからこそ、彼の専制的な試みは東ローマを東ローマらしくさせたといっても過言ではない。
610年からのヘラクレイオスの治世期もまたその一つである。彼の時代に帝国はバルカン半島とアナトリア半島を軸とし、またギリシア人とその言語を中心とした国家へと大きく変貌した。東ローマ帝国がビザンツ帝国だとかビザンティン帝国だとか呼ばれるのは、この時代が主な原因である。そういった意味でも7世紀は古代ローマ帝国との明確な線引きがなされた時期といえるだろう。
この国が「ローマ帝国」と名乗るからには、東ローマの出発点と称して模索することは野暮かもしれない。しかしこの国が古代ローマ帝国とは異なる部分を含むこともまた確かである。本項ではそれらの点を考慮しつつ、帝国が東西に分割された395年を東ローマの出発点としたい。
前期 成立と再興
395年、肥大化した領土の統治に限界を感じたローマ帝国は、最終的な東西の分割統治を開始した。
旧都「ローマ」を所領する「西側」はその後100年ももたない。他方、「東側」はローマ帝国の政治・伝統・文化を継承し、長きにわたってキリスト教(正教会)国として地中海世界に君臨した。名実相伴ったのかは別として、東ローマは1453年の滅亡まで、ローマの名を誇るに至ったのである。
社会背景
古代ギリシア・ローマ社会では戦・名誉・自治が密接に絡み合った価値観の元、ポリス社会が形成されていた(古代ローマ帝国は数々のポリスとの同盟・契約によって成り立つ帝国でもあった)。政治的発言権を持つ市民は己の都市を自ら仲間と共に防衛し、管理することに誇りを抱いていたのである。
しかし、古代ローマ帝国が経験した3世紀の危機や相次ぐ蛮族の帝国への侵入により、この名誉と自治の価値観は廃れていった。
- 共同体意識を保持するための設備(たとえば公共浴場や競技場)の維持が困難となったこと
- 農村や郊外から多くの部外者が都市に流入し、雑多で精神的に統一されていない大衆が出来上がったこと
- これらの結果、市民は都市政治に喜びを見出すどころか疲れを感じるようになっていったこと
相次ぐ戦乱と土地の荒廃はこうした社会の変質を招いた。それ故4世紀の末にはポリスの「自治と名誉の伝統」はほぼ消失した(帝都コンスタンティノポリスにおいては競馬場とそこに集う人々の政治的発言という形で、6世紀まで続いた)。それ故、地方政治は地方議会ではなく地元の一部有力者の手に渡っていく。
荒れていく社会と自治への責任感の喪失により、人々は心の支えを欲するようになった。そのすがる思いの行き着く先がキリストの教えであり、神と結びつく東ローマ皇帝へ服属することであった。この「皇帝の奴隷」であることに安心感を覚える風潮が、東ローマ皇帝を専制君主化していく。この時代はその最初の段階であった。名誉を重んじ簡単には跪かなかった古代人と、この時代以降の東ローマ人の皇帝への平伏……実に対照的である。
テオドシウス朝(379年 - 457年)
395年、東ローマ帝国は静かに成立した。
当時の多くの国民は、395年を「ローマ帝国の完全な分裂」とは考えていなかったのである。事実、当時の東ローマと西ローマの交流は途絶えておらず、また東西に皇帝を立てることもディオクレティアヌス帝の時代から何度かあった。したがってこの“395年”は、古代ローマ帝国、および西ローマ帝国との明確な線引きが不可能な時代といえる。
このように特徴の少ない帝国の初期だが、別段何もなかったわけではない。東ローマ帝国を1000年以上にわたって守り続けた「テオドシウスの城壁」が完成したのも、当時ヨーロッパを席巻していたフン族のアッティラへ献金を打ち切ったのも、そして(今日のカトリックの考えである)キリスト教の三位一体説が支持されたのも、すべてはこの時代である。
帝国は確かに誕生した。後の東ローマ帝国やヨーロッパ史、ひいてはキリスト教の価値観へ少なからず影響を及ぼしながら、産声を上げたのである。
レオ朝(457年 - 518年)
何といっても特筆すべきは「西ローマ帝国の滅亡」である。
3代(および5代)皇帝ゼノンの治世期たる476年。西ローマ側が、オドアケル率いるヘルール族の賠償金要求を断ると、オドアケルらによるローマ荒掠が始まった。オドアケルは時の西ローマ皇帝ロムルスを退位させ、帝位のあかしを東ローマ皇帝ゼノンへ送り返した。これは東ローマ皇帝が西ローマ皇帝の位をも戴く、すなわち全ローマ帝国の皇帝となる権限を有することを意味する。オドアケル本人はゼノンの宗主権を認めたうえで、イタリア王として振る舞うというのだ。
かくして東ローマ皇帝=全ローマ皇帝の構図が成立した。しかし西ローマ皇帝が完全に歴史から姿を消すわけではない。もっとも、その最後の西ローマ皇帝ユリウスにしても、480年には暗殺されている。
さて、改めて東西ローマ皇帝となったゼノンではあったが、彼は488年にあろうことか自らに西ローマ皇帝位を献上したオドアケルを討伐するように、東ゴート人のテオドリックに命じた。491年にゼノンはこの世を去ってしまうが、テオドリックによって493年にはオドアケルの排除に成功する。497年、東ローマ帝国はテオドリックを王として承認し、これにより現イタリア・クロアチアに当たる地域には、東ゴート王国(497年 - 553年)が成立することになった。
その後
ゼノン亡き後の東ローマ帝国は、アナスタシウス1世(在位:491年 - 518年)の下、着実に国力を向上させていった。アナトリア南東部のイサウリアの乱が鎮圧され、対ブルガール人用の国防は強化され、そのうえ破綻寸前の財政まで立て直されたのである。後世の東ローマ帝国が理想に燃えることができたのも、この皇帝の尽力による基盤あってのものだろう。
国力が回復していく一方、宗教面においては不穏な影が渦巻いていた。アナスタシウス1世とコンスタンティノポリス総主教は単性論1寄りのキリスト教的見解を示したが、これが三位一体説2を絶対とするローマ教会に反意を抱かれる。まもなく東ローマ帝国は破門された。これは後に神聖ローマ帝国として表れる、東西教会の分裂の第一歩である。
1 キリストは受肉(人間となって現れること)によってその人性が神性に融合された、とする思想。ようは「キリスト=神だけど人間らしさもある」という考え。古くはギリシアの価値観であり、ここに東ローマ帝国のギリシアらしさを見ることができよう。
2 父(YHWH)と子(イエス)と聖霊が一体となり唯一の神となる、という考え。
フランク王国の台頭
少し戻って、西ローマ帝国が滅亡しきってすぐの481年、舞台は西ヨーロッパ。現在のベルギー辺りにいたフランク人のクロヴィス1世は、現ベルギー周辺地域、いわゆるフランドル地方を統一すると、フランク王国(481年 - 987年)を建国した。
フランク王国は486年、現フランス北部における西ローマ帝国系の残存勢力を駆逐しこれを併合。すると、東ローマ帝国と繋がりを有し、またお膝元の北フランスにおいてキリスト教徒のローマ系ガリア住民が多くいた事実から、5世紀末までに、フランク王クロヴィスが東ローマ帝国の国教と同じである、キリスト教アタナシウス派に改宗した。
507年、フランク王国は西ゴート王国(現スペイン・南フランス)に対し勝利、その版図をフランス南西部、ピレネー山脈にまで拡大させた。フランスの原型成立である。翌508年、クロヴィスはパリを都とし、東ローマ帝国からはローマ帝国の名誉執政官の位を与えられ、東ローマ帝国の権威の下にフランク王の権力を正統化した。
フランク王国はその後も拡大し続け、6世紀末までには現在のフランス・ベルギー・ドイツ中西部およびアルプス山脈一帯にまで版図を広げた。旧西ローマ帝国領域に新たに出現したこの大国は、次第にイタリアや「ローマ皇帝の位」にも干渉し始め、「正統なるローマ」たる東ローマ帝国にとっての不倶戴天の敵となっていく。
ユスティニアヌス朝(518年 - 602年)
518年、アナスタシウス1世が逝去すると、東ローマ帝国は農民・将軍・皇帝と出世していったユスティヌスから始まるユスティニアヌス朝のもと、大ローマ帝国の復興を開始する。
初代ユスティヌスの時代、外部ではササン朝ペルシャ帝国の脅威が、内部ではシリアのアンティオキアの大地震が、それぞれ東ローマ帝国を直撃した。この混乱期にあって、彼の甥にして腹心、そして同じ農民出身のユスティニアヌスが頭角を現すようになる。
大帝のローマ復興
さて、ローマ帝国。誉れ高きローマを名乗る以上、心の都たる「ローマ」を所領しなくては! ――後々神聖ローマ皇帝が拘泥するように、ローマを名乗るこの国の皇帝もまた、旧都ローマを強く欲した。思えばローマ帝国という国号からするに、ローマ奪還を標榜するのは当然と言える。
が、実際はそのような理想を掲げている場合ではなかった。6世紀前半、2代目の皇帝となったユスティニアヌス1世(大帝、在位:527年 - 565年)は、先代から悩まされていたササン朝の脅威や、襲い来る異民族にくわえ、進む財政難に苦しんでいた。
これに追い打ちをかけるように、532年、都の市民による「ニカの乱」勃発。逃亡さえ試みたユスティニアヌスだが、その際、皇后のテオドラはこう提言する。
たとえそれによって命ながらえるとしても、いまは逃げる時ではない。皇帝たりし者が亡命者の身たることはできない相談である。私も、出会う人々が私に向かって「皇后陛下」と呼び掛けないような日々を送りたくはない。逃亡すれば身の安全が得られるとしても、果たしてそれは命と引き替えにしてよかったといえるようなものだろうか。私は古の言葉が正しいと思う。「帝衣は最高の死装束である」
この励ましのおかげか、大スキピオの再来とまで称された将軍ベリサリウスが乱を鎮圧する。情容赦の無い粛清の後、ユスティニアヌスは旧ローマ領の再征服を見事に達成。実際に動いたのは将軍のベリサリウスやナルセスだけどね。東ゴート王国を滅ぼすなどして、旧西ローマ帝国領を次々と獲得し、見事ローマ帝国の復興を成し遂げる。
- 「ハギア・ソフィア聖堂」の再建。その出来栄えは彼曰く「ソロモンよ、我は汝に勝てり!」。
- 『ローマ法大全』。書いたのはトリボニアヌスだけどね。法の編纂は権威の象徴である。
あのナポレオンもその事実に従った。
どう見ても部下が有能です。本当にありがとうございました。こうして数々の(財政的に)困難な事業の実行を見ると、ユスティニアヌス、いや、皇帝の権力がいかに強大であったかがうかがえる。
失われたイタリア・北アフリカと旧都「ローマ」を取り戻し、帝国はほぼ完全に「東ローマ」ではなく「ローマ帝国」となりえていた、かに見えた。
転落
ところが彼、ユスティニアヌスの事業は、あまりに後世の財政的負担を重くし過ぎた。急速すぎた彼の事業は財産に無理を言わせ、国内の倉庫は底を尽きたという。
財政的に困窮した東ローマ帝国、しかしホスロー1世のもと全盛期にあったササン朝の勢いはとどまる気配を見せなかった。東ローマ帝国は反撃に出るが、不完全な国力では勝利をもぎ取ることはままならなかった。そこにはもはやユスティニアヌス大帝が遺した虚栄さえ、残ってはいなかったのである。帝国はそのまま急激に衰退していき、568~578年には悲願の末に得たイタリアがランゴバルド人に荒らされ、南部と一部都市を除き喪失。またバルカン半島はスラヴ人に侵入されてしまい、旧西ローマ帝国領域である西欧とは陸では分断された。これらを抑えるべく帝国は軍の調達を画策するが、そもそも財政難、そんな資金があるわけもなかった。
国防上の懸念がある程度和らぐのは5代皇帝マウリキウスの治世期、すなわち582年からだった。西方の国防は強化され、ササン朝との和睦も進み、じょじょにではあるが着実に平安が訪れつつあった。
……が、それらの苦労も帝国を安堵に導くには足らなかった。ついに赤字財政が改善されることがなかったのである。残念なのが軍の待遇で、マウリキウスは国費削減を理由に物資の現地調達を要求した。また寒く乾燥した地域での冬の作戦も命じた。これらの人遣いの粗さが軍の反発を招き、後にフォカスを擁立した反乱が勃発。農民出身の二人によって一度はローマ復興をなし得たユスティニアヌス朝だが、何を隠そう、これがその終焉である。
簒奪者の時代
602年、クーデターにより百人隊長フォカスが軍人に担がれ即位した。ところが彼は軍人であったがゆえに元老院との関係は薄く、また政治に関しても辣腕というわけではなかった。もちろん政治基盤も薄い。当然ながら反対派が相次いだが、フォカスはこれを躊躇うことなく処刑していくのだった。無論、市民らはこのありように暴動を起こす。
フォカスの失態はそこに限らない。先帝のマウリキウス帝はササン朝のホスロー2世を援助した人物であったが、フォカスはそのマウリキウス帝を処刑したものだから、ホスロー2世に「支援者(=マウリキウス帝)の敵討ち」という東ローマ侵攻の建前を与えてしまったのである。
民衆の多くは新たな皇帝を待ち望んだ。ちょうどそのとき、カルタゴ(現チュニジア)にてある軍人が動き始める。
中期 変化と盛衰
ヘラクレイオス朝(610年 - 695年 / 705年 - 711年)
疫病のペストが流行し、いよいよ帝国は滅亡の危機に瀕していた。7世紀、東ローマ帝国はササン朝ペルシャ帝国からの圧力を受け、また、北方からのアヴァール人の侵入も無視できぬようになっていた。くわえて都でも無駄な政争が繰り広げられ、内政においても疲弊しきっていた。
これを好機と見たササン朝の君主ホスロー2世は、東ローマに対し挙兵。その進軍はアナトリア(現トルコ)を突破し、帝都コンスタンティノポリスの対岸にまで迫る勢いを見せる。
英雄の誕生
イタリアの対岸にあるカルタゴ。紀元610年、そこにいたアルメニア系の軍人ヘラクレイオス(イラクリオス)は、簒奪皇帝フォカスによる圧政と失態に我慢ならず(あるいは好機と見て)、帝都に上り政権を掌握し、皇帝に即位した。民衆は喜んで彼を迎え入れ、陰鬱な乱世に希望を見出した。
だが。
- 611年、ササン朝に東西貿易の要であるシリアを奪われる。財政赤字が加速。
- 次いで宗教的に重要なパレスチナも奪われる。キリスト教徒落胆。
- あのキリストの処刑に用いられた「聖なる十字架」も奪われる。聖職者涙目。
- 次いで619年、穀物供給源のエジプトが侵攻される。パンの供給ストップ。
- これらの痛手により国力が大幅に低下。
はずだったのだが、
教会と市民の必死の訴えにより、なんとヘラクレイオスは軍を再編し帝都を離れ、親征を開始した。戦いは6年にも及び、東ローマ帝国がとどめを刺されるどころか、なんとササン朝の首都クテシフォンへ侵攻し、勝利をおさめてしまった。実はこれがササン朝の滅亡のきっかけだったりする。
「ローマ人の皇帝、ヘラクレイオス万歳!」――感動の凱旋式の中で、彼は奪還した例の聖なる十字架を掲げたという。
帝国は再編された。ローマ人の国という建前、中心となったギリシア人とギリシア語、もはやローマとは別の独自のビザンティン文化の中で、“一時的に”。
イスラーム勃興
しかし平穏な日々は長続きはしなかった。今度はアラビア半島にて、歴史の新たな役者、もとい東ローマの宿敵が登場する。その名は神に従えし者、「イスラーム」。ササン朝ペルシア帝国が東ローマ帝国との戦によって軍を失い、大きく弱体化していたところを、イスラーム勢力はここぞとばかりにかっさらう。彼らはまた、ヘラクレイオスがやっとの思いで奪還したシリア地方を、勢いそのままにあっという間に占領した。
イスラム側は「ローマ軍は補給が続かない」と見るなり、ヤムルーク川北のジャービヤまで南下、あえて占領下の都市から手を離していった。そして兵力をジャービヤへ一極集中させ、東ローマを誘う形となる。一方、東ローマは続々と解放されていくシリアの都市を喜んで回収し、大軍をジャービヤに向けて進軍させた。餌に釣られているとも知らずに。
決戦。
数に勝る東ローマ軍の猛攻。しかしイスラム軍がこれを4日間耐え忍ぶと、東ローマ軍は暑さに耐えきれず、内部の不統一と離散により、軍の左翼を失う。これを機にイスラム軍は回り込み、東ローマ軍の退路である橋を制圧。攻勢に転ずるイスラムに対し、東ローマ軍は退却を試みるが、行きつく先は深い谷底だった。こうして崖っぷちに追い立たされた東ローマ軍約40,000人は、続々と谷底へと落とされ、戦いの敗北を決定的にした。
ヘラクレイオスは再び失意にうちひしがれた。
以後、東ローマ帝国は基本的にバルカン・アナトリア両半島のみを領土とする、古代ローマ帝国とは完全に異なる帝国となってしまう。
決定的な社会の変質
エジプト、シリアと領土を失ったため、必然的にアナトリア半島が新たな防衛の前線となってしまった。穀物や兵力の供給源であるアナトリアは帝国の心臓であったから、帝国はこれを守るべく各都市の城塞化を急いだ。
その結果、東ローマ帝国における都市の風景は、最早古代から続く「公衆の集う浴場や競技場が目印の」ポリス社会のそれとは異なり、城壁と修道院がシンボルとなる防衛重視の狭い空間へと変わった。帝都以外の都市を「ポリス」と呼ぶことはなくなり、都市のことを城塞を意味する「カストロン」と呼称するようになった。
地域も軍管区(テマ)として再編され、すぐ東または南から襲い来る外的を意識した作りになった。4世紀末の時点で加速したポリス社会の解体は決定的となり、帝国社会はカストロンの社会へと変化したのである。また、地方政治は4世紀ごろには地元の議会から地元の一部有力者の手に移ったと先述したが、7世紀にはそこに軍管区と皇帝直属の官僚が加わるか、あるいは官僚だけが統治する形となっていった。こうした地方都市の首都への隷属化は8~9世紀において完成される。
ローマ式浴場や競馬競争といった類のイベントは庶民の娯楽ではなくなり、東ローマ帝国が自身がローマであると外国にアピールするための国家儀礼となった――それは東ローマ帝国の儀礼主義的性格を決定づけたのだった。
混迷期
ヘラクレイオス帝が亡くなった641年の内に、2人の皇帝が選出されまた退位された。
とくに悲惨なのが3代皇帝のヘラクロナスで、彼は母マルティナの手引きにより即位したとの噂により鼻☆チョンパ、そして母マルティナは舌☆チョンパされたうえ追放されたという。(´;ω;`)ブワッ。東ローマのむなしい政争の典型である。
内部で乱れ狂う一方、641年以降はシリア沿岸部とエジプトのアレクサンドリアを取り返した。だがそれも一時的なもので、646年には再びイスラム帝国により奪い返されてしまう。650年にはシリアを完全に失ったあげく、翌年にはアルメニアを横取りされた。また思想の違いからか、ローマ教会とも疎遠となった。
他方、イスラム帝国は後継者を巡る内乱の渦にあり大人しかった。しかし661年、ムアーウィアの政権掌握によりイスラム帝国内でウマイヤ朝が誕生すると、イスラム勢力は息を吹き返し、再び東ローマ帝国へ圧を加え始める。
対イスラム帝国再び
成立したばかりのウマイヤ朝イスラム帝国。662年にはアナトリア半島を、669年には東ローマの帝都の対岸にまで迫る勢いを見せた。674年にもなると、ウマイヤ朝の攻撃はより過激なものとなり、以後678年までの4年間にもわたって帝都コンスタンティノポリスでは包囲戦が展開された。しかし一度も落ちない。丁度このとき、水をかければ消えるどころか燃え広がる様で有名な「ギリシアの火」が大活躍した。
そうして一進一退の攻防が続いたが、コンスタンティノス4世の在位中(668年 - 685年)にもなると、ウマイヤ朝の侵攻は沈静化していった。ところがこの段階ではまだ、東ローマ帝国に安らぎの時が与えられたわけではなかった。681年、帝国がバルカン半島にてブルガール人に惨敗すると、東ローマはブルガリア帝国の成立を認めざるを得なくなる。とはいえ、他方ではウマイヤ朝に対し圧勝(683年)するなど、東ローマは大国としての面目を保ってはいたのだが……。
皇帝がユスティニアノス2世に代わると、688年、ウマイヤ朝の将軍を仕留めたうえ、和睦にまで持ち込んだ。同年、東ローマはバルカン半島に対し遠征を試みた。しかし693年、セバストポリスの戦いにおいてスラブ部族の反逆にあい、さらにウマイヤ朝に敗北を喫すると、再びウマイヤ朝によるアナトリア侵攻が活発となった。
王朝の終焉
連年の戦費による財政悪化は無視できなかった。引き続きユスティニアノス2世は国家再建に尽力するも、重税という形で市民を苦しめてしまう。そしてあろうことか、彼は建築事業に熱中し、より財政を苦しませることに。694年、これに見かねた市民らはクーデターを起こし、ユスティニアノス2世の鼻を削いで追放した。鼻のない彼は「五体満足ではない」ため復位の権利を失った。
が、ユスティニアノス2世は「金の付け鼻」を新たな鼻とし、「五体満足」を主張、「我こそはローマ皇帝」とし復位をも主張した。705年、ユスティニアノス2世は敵であるはずのブルガリア帝国の後ろ盾を得ると、時の東ローマ皇帝を打倒し、見事復位に成功した。
ユスティニアノス2世がブルガリア帝国と親密にあったから、東ローマ帝国はブルガリア方面との関係を完全することができた。くわえてこの頃ランゴバルド王国やローマ教会とも関係改善を図り、みごと成功した。ランゴバルド、カトリック、ブルガリアと、どれも長年のライバル揃いである。
とはいえ軍事・内政の面では低調であり続けた。ウマイヤ朝には敗北し、ユスティニアノス2世は極度の疑惑から恐怖政治を敷いた。これに北部イタリアのラヴェンナが反対の意を示し、略奪行為に走るという始末。かくして711年、復讐という極めて個人的な理由で軍を動かしたとして、ユスティニアノス2世は廃位させられ殺害された。英雄に始まるこの王朝も、最後は見るに堪えぬものだったのである。
シリア朝(717年 - 802年)
初代皇帝レオーン3世イサウロス(在位:717年 - 741年)がウマイヤ朝の補給艦隊を撃破すると、後のオスマン帝国を除き、イスラムによる帝都の包囲に終止符が打たれた。また彼の時代、皇帝の立場を危うくする帝国艦隊の分割が決定的となった。
宗教面においても大きく仕分けられた時代であった。726年には聖像破壊運動(イコノクラスム)が、730年には聖像禁止令が発された。「二次元なんぞに拝むんじゃねえ!」。無論、これは布教の際に聖像を用いるローマ教会の痛烈な反対を呼ぶことになった。これにより東ローマ帝国とその宗教的姿勢(後の正教会)は西欧における支持を失ったのであるが、逆に言えば西方ローマ教会(後のカトリック)の普遍性もまた東地中海においては消失したということでもある。6世紀以来イタリアに侵入していたランゴバルド族が増長し、北イタリアにおける支配権が縮小の一途を辿るなど、領土的にも荒んだ時代であった。
とはいえ東方においては、東ローマ帝国は繁栄を再び取り戻しつつあった。体制の安定化が着実になされ、またライバルであるウマイヤ朝の勢力が衰えだしたことも相まって、じょじょに帝国は東地中海において強大となっていく。740年、帝国がウマイヤ朝に対し圧倒的な勝利を得ると、東方における平安は明らかなものとなるのだった。
その渾名は糞皇帝!
産まれた際にアレを漏らしたことから「糞」という渾名を持つ皇帝コンスタンティノス5世(741 - 775年)の治世期には、東ローマは北シリアやアルメニア、メソポタミアにおいて大勝をし続けた。こうした東方での勢力圏拡大に限らず、ブルガリア帝国に対しても9度の遠征を行い何度も勝利した。また皇帝直属の中央軍を初めて編成し、皇帝は数々の戦勝から軍神とさえ讃えられた。どこがうんこ。
しかし、コンスタンティノス5世が父レオーン3世の聖像破壊ウン動を推し進め、また、最後の北イタリア領ラヴェンナを失うと、ローマ教皇庁の自立、そして対立は抑えきれなくなった。コンスタンティノス5世は良き皇帝ではあったのだが、こうした宗教的な理由から、後世糞皇帝と呼ばれるのである。9世紀の修道士テオファネスは次のように記述した。
この年、不信心な皇帝レオーン(三世)に、より一層不信心な息子が生まれた。反キリストの先駆けであるコンスタンティノスである。……総主教のゲルマノスが洗礼を施しているときに、生まれたばかりのこの子は、恐ろしい、いやな臭いの予告をした。
すなわちコンスタンティノスは聖なる洗礼盤に大便をしたのである。
このことは目撃した人が確かだといっている。これをみて総主教ゲルマノスは次のように予言した。「これは、将来においてこの子のために、キリスト教徒と教会にひどい災難が降りかかるしるしである」
コンスタンティノス5世は775年にブルガリア遠征中に没するが、その際、最後っ屁でウンと頑張ったため、ブルガリア帝国を弱体化させることに成功する。
ローマ教会の離反
ローマ教会は古代から帝国の庇護下にあった。だが、6世紀のアナスタシウス帝の単性論推しやユスティニアヌス1世による強引なローマ市奪還とそれに伴う同市の荒廃、その後の財政難から来る北イタリア防備の弱体化、そこを狙って侵入したランゴバルド族、そしてそれに対し有効打もなく放置せざるを得ない失態から、ローマ教皇とその土地は、政治的観点から、もはや東ローマ帝国を見限り、新たな庇護者を求めるようになり始めた。
最後の決め手は、上述した、東ローマ帝国による聖像破壊運動であった。これによってキリスト像やマリア像を否定されたローマ教会は、精神的にも東ローマ帝国を見限ることになったのである。
そんな、新たなローマ教会の守護者を求めていたローマ教皇にとって、当時大国化していたフランク王国は打って付けの存在であった。481年に成立し、8世紀前半には現在のドイツ・アルプス山脈一帯からフランスに至る巨大な領域を手中に収めていたフランク王国は、東ローマ帝国に代わり、ランゴバルド族を成敗するにはこの上なきパートナーだったのである。
756年、フランク王ピピン3世は見事ランゴバルド王国軍を圧倒し、ランゴバルド族より奪った北イタリアの一部地域をローマ教皇へローマ教皇領として寄進。774年には国王カールによってランゴバルド王国を完全に討滅し、ローマ教会を守護してみせた。
こうした経緯により、ローマ教会は自身の庇護者をフランク王国へと改めるに至った。それは、ローマ教皇庁が政治的には東ローマ帝国から完全に離別することを意味し、またローマ市が帝国とは別の勢力圏に移ったことをも意味していた……。
参上二次元女帝
ローマ教会の避難を浴びた聖像破壊運動も、レオーン4世の時代には大きく緩和された。続けてレオーン4世の后エイレーネーが彼の死後に実権を握ると、787年には聖像崇敬が復活するに至った(なお、余談だが彼女は息子の目をくり抜いて帝位を簒奪し即位した。マジキチ)。
が、エイレーネーの聖像崇敬政策は度が過ぎていた。聖像破壊派の将軍をfireしたりするなど、二次元否定派を徹底弾圧したのである。軍の主力を失いゆく帝国の防備が堅い訳もなく、当時ハールーン・アッ=ラシードのもと全盛期にあったアッバース朝イスラム帝国による侵攻も目を見張るようになった。
もとより息子の目をくり抜いてでも即位した女、この先何を犠牲にするかもわからない、ということで彼女の支持は相当低かった。エイレーネーはこれを挽回すべく税を極端に軽くしたが、それはかえって赤字財政を誘発するだけに終わった。
このころ西方のローマ教会では、教皇が「女が政権を握った時点で東ローマの皇帝は絶えた」と至極根拠が見当たらない暴論を説いた。そしてそれを建前とし、800年のクリスマスに、かねてより東ローマ帝国に代わってローマ教皇庁を守護してくれていたフランク王国の王カールを、「ローマ皇帝」として戴冠、西ローマ帝国の後継者として、神聖ローマ帝国を成立させた(当時はただ“帝国”と称した)。これをもって、東ローマ帝国の「ローマ帝国の唯一無二の後継者」という権威が、西欧諸国には通用しなくなったのである。
アモリア朝(820年 - 867年)
前王朝ほどではないが、この頃には聖像破壊運動が息を吹き返していた。
そのほか、王朝初期にスラヴ人による反乱が勃発。824年に乱を平定するが、鎮圧による疲弊によりイスラム勢力への対応が遅れた。827年には北アフリカのアグラブ朝によってシチリア島が、そのほかのイスラム勢力によりクレタ島が、それぞれ侵攻されることになる。
これらイスラム勢力に対し、帝国は遠征軍を送ることもあったが、完全勝利とはいかず、838年にはお膝元であるアナトリア半島に打撃を受けた。これに対する報復や、イスラムへの国防、海軍の再編、そして聖像破壊運動の強化などは、ほとんどが実を結んでいない。ミカエル3世の治世期である863年になると、東ローマ帝国はアッバース朝に対し攻勢に転ずるようになる。と思えば、今度はシチリア島がアグラブ朝に侵略され、またアナトリアでは異端宗派が拡大していった。
このように軍事的には二転三転としていくアモリア朝だったが、文化や経済の点ではむしろ帝国に発展をもたらした。例えば文化の点では、キュリロス(キリル文字の由来)兄弟による聖書のスラヴ語訳や正教会の布教により、初期の東欧世界の形成に成功している。経済面では、829年からの銅貨の大量発行を受け、地中海貿易が活発となり、東地中海にける東ローマ帝国の地位をある程度はカバーした。学問の分野では、帝都における高等教育の充実により、後のマケドニア朝ルネサンスなる文化的躍進の種を帝国にまくことができた。このような文化圏や経済的影響力の拡大は、間違いなく東ローマ帝国の再興に役立っただろう。
マケドニア朝(867年 - 1057年)
ギリシア、いやローマ人の国は、マケドニア朝(867 - 1057年)のもと、9世紀には国力が著しく回復した。
そもそもアルメニア系農民の子であった初代バシレイオス1世だが、彼の子孫には有能な者が多い。レオーン6世は政治や経済を安定化させ、コンスタンティノス7世は古代ギリシア文化を復興させ、バシレイオス2世は東ローマ帝国の最盛期を体現した。まさにこの時期に、東ローマ帝国は政治・経済・軍事の点で大きく発展したといえる。また独自のビザンティン文化もさらなる跳躍を見せ、美しく花開いた。
この時代に行われた東欧諸国への正教会の布教は、以後の東欧世界の成立と形成に深く関わっている。ロシアなどがその最たる例であろう。今日もハリストス聖堂に、その輝きを残している。
全盛期
- 最盛期に至る経緯については『バシレイオス2世』の項を参照されたし
- 「サラセン人(イスラム教徒)も恐怖に蒼ざめて死ぬ」と謳われたニケフォロス2世フォカス(在位:963年 - 969年)
- 先代の事業を安定させ国力を増大化させたヨハネス1世ツィミスケス(在位:969年 - 979年)
- 「ブルガロクトノス(ブルガリア人殺し)」と敵に恐れられたバシレイオス2世(在位:958年 - 1025年)
彼らの下、帝国領はシリアの北、イタリアの南にまで拡大し、果たして東ローマ帝国は再度地中海世界の帝王として君臨した。ユスティニアヌス大帝の時代には底を尽きた倉庫も、このバシレイオス2世治世下では、財宝をしまえるだけのスペースがなくなるくらいに潤沢となり、倉庫を拡張せしめたほどだという。またバシレイオス2世は古代ローマからの皇帝専制体制の頂点を成し遂げ、東ローマ帝国の全盛期を現出させた。
帝都コンスタンティノポリスは北の黒海と南の地中海を結び、また東のアジア諸国と西の欧州諸国のかけ橋として、十字を切るように交通の要衝として栄え、人口も30万人に達した。商業の中心地となった帝都には「中世のドル」と称される黄金の通貨「ノミスマ」が発行され、各国に行き渡った。すっかりギリシア化した「ローマ人の国」は、空前の栄華を享受する。その懐に、異教徒の剣が着実に迫っているにもかかわらず。
高速浪費ゲーム
バシレイオス2世の死後(1025~)、皇室ではいかに早く先帝の財産を消費しきるかが競われていた。
1025年に即位したコンスタンティノス8世は「ひたすら宴会や戦車競走」「自ら参加の剣闘士競技」、そして「異民族侵入を無視」「来賓が来てもボードゲーム中」という高パフォーマンスで国民を震えあがらせた。次の代ロマノス3世は手当たり次第に修道院を建設し国庫の枯渇に貢献。またバシレイオス2世が制定した大土地所有を予防する制度を白紙に戻し、貴族の独立傾向を高めさせた。
低俗なる躍進はまだ終わらない。ロマノス3世の皇后はゾエだったが、彼女には愛人のミカエルがいた。ミカエルは彼女の寵愛によりミカエル4世として皇帝に即位するが、その途端、手の平を返すようにゾエを幽閉し縁を切ったのである。その無知と鞭に彼女は感動のあまり涙したことだろう。
続く13代皇帝ミカエル5世は「傀儡になんてなってやるか!」ということで宦官のヨハネスを追放。そこまではよかったのだが、民の支持を受ける皇太后のゾエにさえ挑戦してしまい、政的に敗北を喫す。彼は廃位され盲目にさせられた(物理的な意味で)。これを機にゾエは調子に乗ってしまい、妹テオドラと共に共同皇帝として即位するが、ほどなくして二人の仲は険悪となる。これを埋め合わせる形でコンスタンティノス9世が即位した。
しかしコンスタンティノス9世は官僚を増やし過ぎたために財政を悪化させ、またそのしわ寄せで帝国の軍隊を弱体化させた。一方で元皇帝のゾエとテオドラの姉妹は贅沢を極め浪費につぐ浪費を行った。またコンスタンティノス9世は商人を優遇しすぎたため経済は泥沼化し、他方でローマ・カトリック教会との相互破門を臆病な故に抑えきれず、東西教会の分裂を決定的にした。
これをうけて、「私ならできる!」ということで先ほどゾエの妹として登場したテオドラが女帝として復位したが、残念ながら翌年にお亡くなりになった。1056年。養子のミカエル6世が後を継いだが、彼は軍隊を冷遇したため反乱にあい後に病死。ここに東ローマ帝国に最盛期を齎したマケドニア朝が断絶した。
と、このように、バシレイオス2世の死後には、愚図で役立たずな皇帝たちが幾度となく即位を繰り返した。低俗な自称ローマ皇帝たちは、バシレイオスがせっかく蓄えた金銀財宝のたぐいを、時に野望に、時に私利私欲に使い込んだ。結果、財宝が溢れる故に増築した帝国の倉庫が、冗談でも何でもなくスッカラカンになってしまったのである。
ドゥーカス朝(1059年 - 1081年)
皇帝の醜態を見かねたのか否か、各州の貴族階級が、自らの地位向上(給料アップ)、または皇帝位の奪取のために、急速に台頭、軍事力により訴えた。極めつけは市民の反乱。それはユスティニアヌス大帝治世期には抑え込めただろう、しかしこの時期の東ローマにはそんな尻拭いの力さえ無かった。
多額の国債に苦しむ時代でもあった。彼ら貴族の反乱軍を抑え込めないのだから、結果として彼らの要求通り、彼らの地位の向上、財産上の優遇を約束してしまう。金がないから鎮圧できず、給料アップを約束し……帝国は一層の矛盾に苦しんだ。負のスパイラルである。どう見ても経済破綻です。本当にありが(ry
危険は内面に限らない。
帝国の全盛期には一旦影を薄くしたイスラム勢力も、いまや遊牧騎馬民族「トルコ人」を中心として展開していた。名はセルジューク朝(セルジュークトルコ)。トルコ軍は帝国領の二大半島の一つ、アジアのアナトリア半島(現在のトルコ共和国、つまり……)に侵入を繰り返していた。これも以前の力をもってすれば、何らかの対抗処置も見出せただろうが、時の東ローマには無理であった。かくして1071年、マンツィケルトの戦いにて東ローマは敗北を喫し、以後、アナトリア半島のトルコ化は抑えきれなくなっていく。長らく東ローマ帝国の兵の主力はアナトリア半島から供給されてきたため、長期的に見てこの喪失は帝国の戦略を破局に向かわせた。
この負け戦には南イタリアに駐屯していた多くの精鋭軍も従軍し犠牲となったため、東ローマ帝国の南イタリア支配は脆弱となり、そこをノルマン人に突かれる格好となった。敗戦と同じ1071年に、帝国は南イタリア領をも失うことになる。――帝国は、国力基盤としていたアナトリア半島と、「ローマ帝国」の権威として重要な南イタリアを完全に喪失し、残る領土はほぼバルカン半島のみの一勢力に転落したのだった。
コムネノス朝(1081年 - 1185年)
最盛期以降は着実に衰退していく東ローマ帝国。しかし大貴族の男アレクシオス1世が即位すると、帝国には再び黄金の繁栄が齎される。
さて、この頃帝国内では身分を高めてさらに金を得ようとする貴族らが台頭していたが、アレクシオスはこれを「位の再編」という形で対応した。帝国に寄生するVIP連中から一気に位(つまり給料)を剥奪し、クーデターを起こす寸前の貴族、すなわちお金が欲しい有能な者に、位と余ったお金を分け与えるというのだ。このアレクシオスの英断は帝国の衰退を確実に止めた。というのも、財政赤字が解消されたばかりでなく、有能な貴族の金銭欲を満たし国内を安定化させたからである。
また彼は「軍事奉仕と引き換えに徴税権を与える」というプロノイア制を実施し、財政を整備した(まるで西欧の封建制)。さらに、アレクシオス帝は貴族たちと婚姻関係を結び、血縁関係においても帝国を安定化させた。
アレクシオス1世がクーデタを起こし諸侯の承認のもと即位したという時代背景、彼が諸侯との間に婚姻関係を結び結果的に諸侯が力を持つに至ったこと、そして封建制的なプロノイア制により、東ローマ皇帝は絶対的な専制君主から貴族連合の長という形に変質した。それは帝国が貴族連合による社会へと変わったことを意味する。それまでは「皇帝の奴隷」であることを美徳としていた貴族や官僚も、この時代以降そうした意識は薄れ、貴族に至っては「皇帝の友」と意識する者さえ現れた。
東方再征服――再び黄金の帝国へ
セルジューク朝など東方のイスラーム勢力に対しては西欧の援助を受け、十字軍という傭兵で積極的に対抗した。ローマ教皇を通じて西欧のキリスト教徒軍が集結し、アレクシオス帝に忠誠を誓い、瞬く間に帝国の都コンスタンティノポリスの対岸にしてアナトリアの重要都市ニカイアを包囲し、東ローマ帝国へ返還した。十字軍に勢いづけられた帝国は、その後アナトリア半島の北岸をも奪い返し、再び黒海の制海権を得ることに成功する。
さて十字軍の中には帝国から南イタリアを奪ったノルマン人、つまりシチリア王国の軍もいたが、彼らは地中海東岸のアンティオキアを陥落させるや否や、なんと皇帝アレクシオス1世への忠誠を捨て、西の本国シチリアと東のアンティオキアから帝国を挟撃した。しかし驚くべきは東ローマ側の対応であり、アレクシオス帝は、十字軍を使ってでも倒したいはずのセルジューク朝と結託し、シチリア領アンティオキアを徹底的に叩いた。仰天したシチリア王国は帝国領のバルカン半島へ報復するも、アレクシオス帝の軍を前に降伏。ここに、東ローマ帝国のアンティオキア(シリア)における宗主権も確定した。
東ローマ帝国の反撃と繁栄はアレクシオス帝の代では終わらず、2代皇帝ヨハネス2世の治世期には、依然セルジューク朝が占拠していたアナトリア南岸への親征が進められ、なんと沿海部を回復することに成功、さらには地中海東岸の大都市アンティオキアを奪還する。内政面ではヨハネス2世の善き節制と実力主義の官僚制により財政が安定し、外交面ではハンガリー王国の政治的介入を阻止するに至り、バルカン半島の安寧を維持した。後世に東ローマ屈指の名君と謳われるのもうなずけよう、彼ヨハネスにより東ローマ帝国は極めて華やかな時代を迎え始めるのだ。
このように有能な皇帝たちの尽力により、東ローマ帝国は一転して黄金の栄華を極めた。十字軍兵士として訪れた西欧の王侯貴族も一介の騎士も、東ローマ帝国の町の数々や都市の暮らしに憧憬を抱いた。まさしくこの時代、東ローマ帝国は西欧の人々が殺到する黄金の理想郷だったのである。
テオドロス=プロドロモスなる人物は、この時代を以下のように詠っている。
沈むことなきローマの太陽(イリオス)、世界を照らす光を担う者よ。
天空の下にある者達のために灯火を掲げる者、月の下にある者達のための光よ。
緋紫の光を放つ太陽、新しきローマの星よ。
光り輝くコムネノス・ドゥーカス両家の子、デスポティス、単独統治者(モノクラトール)よ。
汝の下にある者達を暖め、敵対する者達を焼き尽くす者。
天空高く昇り、光りたまえ、輝きたまえ、煌めきたまえ。
西方再征服――「ローマ帝国」の再建へ
コムネノス朝3代目のマヌエル1世は、1154年、南イタリアの宿敵シチリア王国のルッジェーロ2世が没した際の混乱につけ込み、翌年に南イタリアの再征服を実行した。マヌエル帝の皇帝軍は快進撃を続け、かつての西ローマ帝国の都ラヴェンナからイタリア半島の「長靴のかかと」にあたる最南端地域に至るまでの、沿アドリア海地域の8割を征服する。「ローマ帝国」復活の第一歩に見えた。またマヌエル帝はバルカン半島西方のセルビアをも奪還していた。地中海最強にして最大の版図を誇る大帝国が、わずか数年で出来上がっていたのだ。
これに対し、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世通称バルバロッサ(赤髭)主導の下、神聖ローマ帝国とイタリア諸都市国家による反“ビザンツ”同盟が結成された。マヌエル帝もバルバロッサも、我こそがローマ皇帝! と言わんばかりであった。東ローマ帝国の同盟国であったヴェネツィア共和国も反ビザンツ同盟に立ち、当然ながらシチリア王国もそちらにつく。東ローマ帝国は苦境に立たされ、1156年、シチリア王グリエルモ1世の軍勢に大敗し、イタリア征服計画は頓挫した。
斜陽
西欧は文化的後進地域ではなくなっていた。十字軍やシチリア王国とアラブとの交流から来る12世紀ルネサンス、農業と商業の活性化が、西欧文明を大きく成長させていた。思えば始祖アレクシオス帝からいって軍人皇帝であったコムネノス朝や、西欧封建制的なプロノイア制、そしてマヌエル帝の西欧趣味に、西からの影響はあったように思われる。
一連のイタリア遠征は東ローマ帝国とヴェネツィア共和国の関係を破綻させた。マヌエル帝は北西イタリアのジェノヴァやピサと通商関係を築くことで、1171年、ヴェネツィアを不要なものとし断交した。
一方帝国内では、アレクシオス1世の頃に成立した婚姻関係による貴族(コムネノス・ドゥーカス家)の数が肥大化し、マヌエル帝はこれを抑えきれなくなる。再び各地で貴族の独立傾向が浮き彫りとなったのである。
皇帝への不服従は内政に限らず、十字軍と帝都市民の関係が悪化すると、帝国はジェノヴァ共和国や断交したはずのヴェネツィア共和国に軍事的な協力をしてもらう他はなくなり、結果としてその2国に貿易特権を許してしまうことに。これは都市経済の衰退を招き、東ローマ帝国衰亡の遠からぬ原因ともなった。
神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサとの確執も拭えず、とうとうセルジューク朝トルコと神聖ローマ帝国が結び付き、東ローマ帝国を東方から圧迫した。1176年、マヌエル帝の皇帝軍はミュリオケファロンの戦いでセルジューク朝軍に完敗し、東方においても帝国は大幅に弱体化した。
婚姻関係による貴族の肥大化に十字軍との軋轢と、アレクシオス帝の政策のガタがここに来て顕在化したのである。
夕暮れ
1179年、マヌエル帝は対神聖ローマ同盟としてフランスと婚姻同盟を結び、フランス王女アニェス(7歳)を長男に嫁がせた。翌年にマヌエル1世が死去すると、アニェスと結婚した長男が後を継ぎ、アレクシオス2世として即位する。
が、先帝マヌエルの従弟にあたるアンドロニコスが先帝の死後反乱を起こし、アレクシオス2世と彼の摂政であり西欧優遇策を進めるマリアに矛先を向けた。かねてより皇帝のイタリア優遇に嫌気がさしていた帝都市民はアンドロニコスの乱に同調し、帝都の西欧人街で暴徒化した。結局即位3年のアレクシオス2世が殺害され、アンドロニコスが次期皇帝となる。市民の半イタリア感情を利用し政権を取ったのである。
このアンドロニコス1世だが、まだ10代であった、亡きアレクシオス2世の后だったアニェスを無理やり娶り、帝位を正当化すると、官僚貴族の腐敗に手をつけた。それはまさに、「不正をやめるか生きるのをやめるか選べ」といった形であった。効果はあったものの、王朝の始祖アレクシオス1世の代から続くプロノイア制が貴族の土地所有を助長し、改革は失敗した。
落日
苛立つアンドロニコスは恐怖政治を敷く。そして、経済の不振から再びヴェネツィア共和国と秘密裏に結びつくが、これが噂を通じて市民にばれた。さらに、恐怖政治により次々と処刑されていく貴族たちがシチリア王国に救援を求め、帝国の西の玄関デュラキオン(現アルバニア)にシチリア軍を上陸させてしまい、帝国第2の都市テッサロニカ(マケドニア地方、現ギリシャ領)が落とされた。もちろん東ローマ帝国の軍隊の大部分はそちらに回された。
1185年、アンドロニコスは占いを根拠にイサキオス・アンゲロスなる貴族を次期皇帝候補として殺そうとする。が、市民の暴動がイサキオスを皇帝として持ち上げる。しかし軍隊は西方のシチリア軍へ向けられているため、アンドロニコスは暴徒鎮圧用の軍を用意できなかった。不満の爆発という形で広がる暴動によって、あれだけ市民と同調したアンドロニコスがあっさりと、そして惨たらしく殺害されたのだった。
かくして、東ローマ帝国にひと時の復興を許したコムネノス王朝がその終わりを告げた。アンドロニコス帝の時代はまた、シチリア王国のほか、セルビア王国やハンガリー王国をも敵に回し、領土を大幅に失うなどの失敗が目立つ。
アンゲロス朝(1185年 - 1204年)
19年王朝。
コムネノス朝末期からの財政悪化、政治の破綻を引き継ぎ、ほぼ改善できず、また全皇帝が無能という理由から、たったの19年しかもたなかった。
6 :世界@名無史さん:2008/05/23(金) 23:44:25 0
俺ら極悪非道のアンゲロスブラザーズ!
今日も未来はないのに帝位争いしてやるからな
 ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∧_∧ ∧_∧
(・∀・∩)(∩・∀・)
(つ 丿 ( ⊂)
( ヽノ ヽ/ ノ
し(_) (_)8 :世界@名無史さん:2008/05/24(土) 00:27:53 0
すっごぉ~いッ!
何回も失策しながらも皇帝をやめないッ、イサキオスーッ!
なんという低脳 なんという浅知恵 まるで猿ですッ!飛び出したのは…アレクシオス!
ぬけたァーッ、単独走ですッ!
華麗だ、相変わらず華麗な裏切りっぷりッ!滅亡!
やったァー、コンスタンティノポリスを滅亡させましたァーッ!!アレクシオス「やったなイサキオス、またまた僕らのコンビで勝負を決めたな!」
イサキオス「うん! アレクシオス、見事だったよ、君の謀反は!!」
アレクシオス「ありがとう! だがイサキオス、君の愚策あっての滅亡さ!!」イサキオスはアレクシオス5世によって殺される予定!
かたやアレクシオスは依然として生き続け娘婿の足をひっぱり続けます!
この東ローマ帝国崩壊ももこの二人あっての快挙!
まさに我が国の汚点!! カリギュラより最悪です!!
東ローマ帝国滅亡の原因は、この王朝にあるといっても過言ではない。
後期 分裂と衰亡
ラテン帝国とニカイア帝国(1204年 - 1261年)
アレクシオス4世救援の見返りに資金を約束されていた、ヴェネツィア主導の第四回十字軍。アンゲロス朝の政争がアレクシオス4世で終わっていればまだ金は払われたかもしれない、しかし帝位は最終的に市民を味方に付け反乱したアレクシオス5世に移ってしまう……これが報酬の未払に繋がり、1204年に、第四回十字軍をしてコンスタンティノポリスを陥落させた。その結果東ローマ帝国が滅亡し、コンスタンティノポリスにはフランドル(現ベルギー)伯のボードゥアンを皇帝とする、ラテン帝国が建国された。
旧東ローマ世界の分裂
東ローマ帝国領の喪失はコンスタンティノポリスに限らなかった。
帝国第2の都市テッサロニカはイタリアに、ギリシアのペロポネソス半島はフランスに征服され、ラテン帝国皇帝の宗主下でそれぞれテッサロニカ王国・アカイア侯国が建国された。北西部を除くアナトリア半島はトルコ系のルーム・セルジューク朝に占領され、シリアとキプロス島は完全に失われ、エーゲ海南のクレタ島はヴェネツィア直轄領となっていた。そのほか北方の第二次ブルガリア帝国はその版図を南に拡大し続け、セルビア王国もまた息を吹き返していた。
それでも東ローマ帝国の貴族は抵抗を続けた。現アルバニアにあたる地域にはアンゲロス家のエピロス専制侯国が、アナトリア半島北東の沿岸部にはコムネノス家のトレビゾンド帝国が、それぞれ亡命政権として存在していた。そして、コンスタンティノポリス対岸のアナトリア北西部には、ラテン帝国から亡命したコンスタンティノス・ラスカリスの弟テオドロス・ラスカリスがニカイア帝国を建国していた。
東地中海の戦国時代
しかしラテン帝国の野望は潰えた。1205年に北方のブルガリア帝国にハドリアノポリス(アドリアノープル)の戦いで敗れ、皇帝ボードゥアンはブルガリアに捕縛され獄死し、コンスタンティノポリスを巡る勢力争いから最初に転落した。
これを受け、コムネノス朝トレビゾンド帝国が黒海沿岸地域を西へ西へと吸収し、コンスタンティノポリスに迫る勢いを見せた。しかし同じ東ローマのラスカリス朝ニカイア帝国の介入がトレビゾンド帝国を阻み、アナトリア北東へ封じていった。
一方、バルカン半島方面のアンゲロス朝エピロス専制侯国は、1215年にイタリア系のテッサロニカ王国を破り、1224年以降は東ローマ帝国復興を旗印に、ラテン帝国のコンスタンティノポリスに迫っていった。事前に後顧の憂いを断つべく、北のブルガリア帝国に挑むも敗戦し、コンスタンティノポリス奪還には至らない。
ラテン帝国のコンスタンティノポリスに最も近い勢力は、西のブルガリア帝国と東のニカイア帝国になる。
台頭するニカイア帝国
ニカイア皇帝テオドロス1世ラスカリス(在位:1204年 - 1222年)は、即位後次のように語った。
「神はダヴィデに対してなされたように、朕にも塗油を施された。……朕は再び故国を、罪を犯したがゆえにそこから投げ落とされたあの故国を取り戻すであろう」
初代皇帝テオドロスの下、ニカイア帝国は1211年にルーム・セルジューク朝軍に勝利し、スルタン(イスラム圏の最高指導者・皇帝)を討ち取った。1240年からは、2代皇帝ヨハネス3世の下、ニカイア帝国はブルガリア帝国・エピロス専制侯国を撃破し、とうとうアジアのアナトリア半島を超えてヨーロッパのバルカン半島にまでその版図を広げた。
1254年には、3代皇帝テオドロス2世が貴族たちが持ち上げた盾に乗り即位し、在りし日のローマ帝国の慣習を印象づけた。
貴族に持ち上げられたことから分かるように、ラスカリス朝の皇帝は専制君主ではなく、コムネノス朝と同様に「貴族の長」として君臨した。軍役奉仕と引換えに免税されるプロノイア制度が貴族内でより発展していたので、ニカイア帝国の社会は西欧封建制さながらの貴族連合的社会であった。
従来以上にプロノイアによる免税が増えれば、当然帝国の財政にも悪影響が出る。それに対しニカイア皇帝は、皇帝直轄領の経営、たとえば牧畜や農業を巧みに管理し、大きな財政黒字を生み出すことに成功した。
蒙古襲来!
残るは“元”帝都コンスタンティノポリス。1258年、皇帝テオドロス2世がこの世を去ると、まだ7歳の息子が帝位を継ぎ、ヨハネス4世として即位した。彼の代でニカイア帝国は帝都を奪還し、(東)ローマ帝国の復興が相成ると思われた。……ところが事態は思わぬ方向に寄り道する。
モンゴル帝国が襲来したのである。それにより東ヨーロッパ平原の商業路が見直され、一時的にヴェネツィアが牛耳る地中海経済システムが狂い、ニカイア帝国のヴェネツィアへの経済的服従が和らいだ。またモンゴルに土地を荒らされたルーム・セルジューク朝はニカイア帝国から穀物を買いあさり、これもニカイア帝国の経済的回復に寄与した。さらに、モンゴルの東欧進出がニカイア帝国の宿敵であるブルガリア帝国をも弱体化させてくれた。
最も狡猾なギリシア人
ルーム・セルジューク朝トルコ帝国に亡命していた大貴族の男、ミカエル・パレオロゴスは、将軍としてモンゴル軍を破るなど卓越した指揮能力を見せたため、先帝テオドロス2世に「皇帝への忠誠」と引換えに帰国するよう求められた。ミカエルはこれを承諾し、テオドロス2世に忠誠を誓いニカイア帝国に帰国する。
1258年、7歳のヨハネス4世が即位したとは先述したが、当然ながら政治の舵取りは摂政に任されることになった。その摂政が先帝テオドロス2世の右腕として活躍した、ムザロンという成り上がり者であった。貴族たちはこの経歴の薄いムザロンを良しとせず、帰国したミカエル・パレオロゴスに期待していた。そうしてミカエルは密かに総主教と通じ、摂政ムザロンが先帝追悼のミサに出席し無警戒となっていたところを襲い、殺害した。ムザロンも警戒を怠っていたわけではないが、何せ修道院の中である。人殺しを想像する方が難しい……。ムザロンが摂政になってわずか10日目のことであった。
ムザロン殺害後、ミカエルは貴族と総主教承認の下、新たな摂政となる。幼皇帝ヨハネス4世と帝国のため、有能なミカエルが摂政に選ばれたのである。ところがミカエル・パレオロゴスは摂政程度で満足する男ではなかった。彼の野心は次に共同皇帝の位をも要求した。理由は、摂政は恨まれやすいとのことだったが、最後の一言が余計だった。
「ムザロンのようにはなりたくない」
あんたのために殺しておいてそれは……。
総主教がやむなく承認すると、ミカエルは共同皇帝の位を得た。するとミカエルの狡猾な外交政策により、帝国は反ニカイア帝国同盟を打ち破り、コンスタンティノポリス奪還に大きく近づいた。
1261年7月、ニカイア帝国の将軍が、ラテン帝国軍が黒海方面へ出かけていることを知り、コンスタンティノポリスがやけに静かであることに気づくと、城壁にはしごをかけ中に入ってみた。これが帝都奪還の瞬間である。もちろん悪賢いミカエル・パレオロゴスはこの帝都奪還をヨハネス4世ではなく自らの功績として大々的に宣伝し、9月には改めて即位式を執り行い、息子のアンドロニコスを共同皇帝として即位させた。そして、同年のクリスマスに、ちょうど11歳になったばかりのヨハネス4世の両目を潰し、追放した。さらにミカエルは、彼の暴挙に対して破門を通告した、かつて共同皇帝の位を与えてくれた総主教を監獄送りにし、己の帝位を磐石なものにした。帝都奪還という功績を前に、貴族も市民も文句は言えなかった。
パレオロゴス朝(1261年 - 1453年)
大貴族ミカエル・パレオロゴスことミカエル8世により、東ローマ帝国はコンスタンティノポリスを再び自らの都とすることができた。これをもって、最後にして最長の王朝、パレオロゴス朝が幕を開ける。
依然として風前のともし火であった東ローマ帝国は、1263年にアカイア公国と和睦した。そして翌年にはエピロス専制侯国とも和睦を結んだ。これらの成果もあってか、東ローマ帝国はペロポネソス半島における領土の回復に成功した。当時、東ローマの経済はヴェネツィア共和国やジェノヴァ共和国が実質的に牛耳っていたが、ミカエル8世の下で、その2国の介入がある程度は抑止された。
一方、1274年にはローマ教会に譲歩し、東西教会の合同を画策するも、熱心な正教徒の反対やローマ教皇の破門にあい、これといった成果は得られなかった。
最後のルネサンスとオスマン帝国の成立
先帝の後を継いだ息子のアンドロニコス2世(1282年~1328年)の代で、東ローマ帝国の行く末は決定的となった。
この時代の特徴は以下の2点が挙げられるだろう。
アンドロニコス2世の高い教養により、東ローマ帝国はビザンティン文化をより磨きぬいた。今日も残るアトス山の修道院などが有名である。この頃の文化的活動、とりわけモザイク画やフレスコ画の発展は優美かつ写実的で素晴らしい。後に起こるイタリアのルネサンスに多大な影響を与えた点では、決して無視はできないだろう。
しかし政治面では衰退の一途を辿っていた。文化的に発展を促したアンドロニコス2世だが、海軍衰退の放置や、ヴェネツィア共和国やジェノヴァ共和国に対する競争の敗北など、軍事的失政も多い。またオスマン帝国による侵攻を阻止できなかった点でも、東ローマ帝国を徹底的に弱体化させたといえる。
晩年は孫のアンドロニコスと帝位を巡る内輪揉めを起こし、東ローマを内的にも疲弊させていった。
アナトリア喪失
1328年に祖父アンドロニコス2世に打ち勝ち帝位を得たアンドロニコス3世(ややこしい)は、翌年にはオスマン帝国へ向けて挙兵した。東ローマ帝国とオスマン帝国は会戦したが、アンドロニコス3世が怪我をしビビったためか軍を退却させた。これが結果として、オスマン帝国によるアナトリア半島の領有の契機となってしまう。
他方、1334年にはセルビアを平定し、1340年にはエピロス専制侯国を帝国領として併合した。
超内乱
アンドロニコス3世が早世すると、長男のヨハネス5世が後を継いだ。しかし彼はまだ幼子であるため、皇太后のアンナとコンスタンティノポリス総主教ヨハネス14世(またまたややこしい)が実権を握った。摂政である。
これに反対したのが先帝の重臣カンタクゼノスであった。彼と摂政コンビが対立すると、東ローマ帝国は5年にも渡る内乱期に突入。1347年、カンタクゼノスがこの内乱に勝利すると、勝者の彼は娘を(一応)現皇帝のヨハネス5世に嫁がせた。そしてカンタクゼノスはヨハネス6世(ああややこしい)と自称し、なんと東ローマ皇帝として即位する。何の権力も持たぬヨハネス5世は、ヨハネス6世カンタクゼノスに左遷されるに至った。
幼い頃に即位はしたが、母や総主教、嫁の親父に実権を握られ続けたヨハネス5世。
もちろんこのまま終わるつもりは毛頭ない。ということで1352年、ヨハネス5世はセルビアと同盟して真の帝位を奪還すべく挙兵したが、もう一方のヨハネス6世カンタクゼノスもまたオスマン帝国の後ろ盾を得たため、失敗に終わった。
復讐を誓ったヨハネス5世は、今度はジェノヴァ人の協力を得て、1354年にヨハネス6世カンタクゼノスを打倒し、ようやく真の帝位につくことができた。このときヨハネス5世は22歳であった。
この間、東ローマ帝国はピザのピースの如く分割されていた。セルビア王国がマケドニア、山岳地帯のエピロス、穀倉地帯のテッサリアを、オスマン帝国が残るバルカン半島の領域を侵食していったのである。1360年代には帝都の最終防衛線たるハドリアノポリス(アドリアノープル)も奪われた。また1370年には負債返済を困難とするためか、ヨハネス5世がヴェネツィア共和国で逮捕されるという前代未聞の酷い様を晒した。それゆえ東ローマ帝国の権威は失墜した。
更なる内憂と介入
東ローマ帝国は未だに一息つくところまでには達していなかった。
ヨハネス5世の長男アンドロニコス4世が帝位を欲すると、父ヨハネスに対し反乱を起こした。1373年にこれは鎮圧されるが、1376年のクーデターは成功。ヨハネス5世は廃位させられ、投獄された。これを良しとしないヨハネス5世は、今度は、かつてカンタクゼノスとの帝位争いの際に敵であったオスマン帝国の援助を得た。こうしてヨハネス5世は復位に成功するが、その代償として東ローマ帝国はオスマン帝国の属国になってしまう。とうとう個人的な野心を理由に帝国を売ってしまったのである。
帝位を奪われた息子のアンドロニコス4世はアンドロニコス4世で、またの復位の機会をうかがっていた。結局彼は復位することなくこの世を去る。だが1390年、その息子(すなわちヨハネス5世の孫)のヨハネス7世(またややこしい)がヨハネス5世から帝位を簒奪した。
しかし、オスマン側からしてみれば、自らの傀儡となったヨハネス5世が東ローマの皇帝であった方が断然都合が良い。よってオスマン側の介入により、急遽ヨハネス7世を廃位させ、またまたヨハネス5世を復位させた。オスマン側はまたもヨハネス5世支援の見返りを求めたため、東ローマ帝国はアナトリア最後の拠点フィラデルフィアを割譲してしまう。そしてコンスタンティノポリス城壁に付属する要塞を撤去したのである。
その際のオスマン帝国のスルタン(最高指導者)の声はこうである。
ヨハネス5世はあまりの心労に息絶えた。彼の治世期はまた、西欧諸国への助力をこう時代でもあった。
脱オスマン
オスマン帝国の人質にあったマヌエルは、父の死を知るなりスルタンのもとを脱出した。そしてコンスタンティノポリスへ帰り、マヌエル2世として即位した。1391年、彼が40歳の頃である。彼は知識人に歓迎され、「哲人皇帝」として期待された。
だが現実は過酷なものだった。トルコ軍の一員としての従軍、帝都にトルコ人移住区の建設、そしてイスラム裁判官をおくという治外法権などは、すべてオスマン帝国の要求である。マヌエル2世はこれらの要求を一々のんでいてはまずい、ということでバヤズィト1世への臣従を破ったのだった。むろん、オスマン側はこれに激怒する。歴然たる戦力差を前に、東ローマはまたも窮地に陥った。
そこでマヌエル2世はハンガリー王ジギスムント1世を味方とし、またイングランド王国、フランス王国、神聖ローマ帝国、イタリア都市国家らによる、大規模な対トルコ十字軍を結成することに成功した。しかし1396年、この大軍も、ドナウ川沿いの町ニコポリスにおいて、バヤズィト1世の軍に大敗を喫した。これを機にオスマン側の圧力はなおのこと増し、東ローマはさらに苦悩することになった。
1399年、マヌエル2世はフランス王国、神聖ローマ帝国、イングランド王国を訪ね、協力をこうた。これほどまでに長大な旅路は、コンスタンティヌス大帝以来であろうか。しかし征服の為に駆けた大帝とは、もはや何もかもが違う。
最大のチャンス
1402年、コンスタンティノポリスの状況は悪化し続けるがままであった。マヌエル2世が帝国を離れ、西欧に対し援軍を要請している3年間、帝都では町をバヤズィト1世に明け渡そうかと議論されている始末であった。
しかしこのとき、東ローマ帝国は最後の好機を得る。
ティムール帝国である。中央アジアから西アジアにまで拡大し続けるもう一つのイスラム帝国が、オスマンの有するアナトリア半島に矛先を向けたのだ。コンスタンティノポリスを包囲していたバヤズィト1世は、急いでアンカラへと戻り、ティムールの軍を迎え撃った(アンカラの戦い)。結果はオスマン側の敗北に終わり、バヤズィト1世はティムールの捕虜となった。
かくして急速に瓦解したオスマン帝国だが、当の東ローマ帝国はというと、その絶好の機会を活用するだけの力は残されてはいなかった。一応、オスマン帝国のスルタン選出に介入し、メフメト1世を即位させることには成功した。東ローマに対し融和な政策を進めさせたが、結局は時間稼ぎにしかならなかった。1421年に新たなスルタン、ムラト2世が即位すると、その関係は破局を迎えたのである。
最後の挑戦
1422年7月、ムラト2世がコンスタンティノポリスを大軍で包囲する。しかし落ちない。その後マヌエル2世の外交戦術によりアナトリアで反乱を誘発し、ムラト2世に軍を退却させた。
しかし翌年には再度オスマン帝国が襲来し、テッサロニキとモレアス専制公領が攻撃を受けた。その際テッサロニキは失われたため、危惧したマヌエル2世は臣従と貢納金払いと引き換えに、1424年に和睦を結んだ。
その後、ヨハネス8世が父マヌエル2世の後を継いだ。父と同様、ヨハネス8世は西欧諸国に協力を要請し続けた。しかしこれも、西欧からの離反やオスマン側の介入により、功を奏すことはなかった。東西教会の合同により、一応の十字軍を結成、ローマ教皇やハンガリー王、ポーランド王を中心とした大軍はオスマン領ブルガリアに派遣された。しかし藪から棒に拵えた軍隊が統一されるわけでもなく、その隙をムラト2世に突かれて崩壊、敗北した。
最後の皇帝
後に最後のローマ皇帝となるコンスタンティノスは、1429年にはアカイア公国を一掃しギリシア中央部にまで軍を進めた。1449年にはコンスタンティノス11世ドラガセス(パレオロゴス家だが母の姓「ドラガシュ」を名乗った)として即位、ムラト2世に対し平和条約を締結した。
1451年、オスマン帝国ではメフメト2世が即位した。ローマ皇帝は彼とも和平を結んだが、これは後に泡と消える。
滅亡
西暦1453年。4月の出来事だった。トルコ人らによるイスラーム国家「オスマン帝国」が、東ローマ帝国の都、コンスタンティノポリスを包囲した。
東ローマ側の守備兵がたった7,000に対し、オスマン側の軍は総勢100,000。歴然たる戦力差の下、包囲戦が開始された。
いうまでもなく戦局は劣勢にあった。が、それにもかかわらず、帝都は一向に陥落しない。東ローマ軍の信仰心からくる士気、歴戦から養われた戦力、とりわけ帝都を1000年間守ってきた「テオドシウスの城壁」の存在や鎖を張ることで敵船の侵入を防ぎ侵入不可能とまでうたわれた東ローマの海「金角湾」が、致命傷を防いでいてくれたのである。またオスマン軍は攻城兵器たる大砲の精度が不完全であったため、決定打とは相ならなかった(後述)。戦線は停滞し、2か月もの間その状態が続いた。
艦隊の山越え
壁は予想以上に堅固で破壊しきれず、しかも西のベネチアから東ローマへの援軍が派遣される危険性をオスマン帝国は予想しており何よりも恐れていた。これ以上の膠着状態が続くのは恐れたのであろう。オスマン帝国のスルタン(皇帝)である「メフメト2世」は、ある策――「艦隊の山越え」に転じる。なんと山を切り開いて船を運び、金角湾に山越えで侵入して意表を突くというのだ!
あらゆる情報を隠蔽するなどして慎重に慎重を重ねて行われたこの山越えの試みは成功してしまい、この結果、これまで東ローマの船の安全地帯として使われてきた金角湾がオスマンの艦隊に侵入されて東ローマが内側から攻撃されることとなる。安全地帯が失われて海側からの補給が絶たれた上に、海側からの攻撃や侵入に備えてただでさえ少ない城内の兵をさらに海側の壁に分散させなければならなくなり、いかんせん信じがたい事実を前に、東ローマは今度こそ崖っぷちに立たされることとなった。
――キリスト教の大聖堂であるハギア・ソフィア聖堂(またはアヤソフィアとも)では、女子供や老人が、天上の神に祈りをささげていた。曰く、帝国の危機には、大天使ミカエルが降臨し、異教徒を討伐せんと戦うという。もしかなえば、帝国最大の危機は去っていくことだろう。もしかなえば、「栄光のローマ」は永遠の伝説となり得ただろう。しかし所詮は、もしかなえば、である――。
凶兆
東ローマにとってさらに不運だったのは、タイミングが重なって凶兆が連続して発生したことである。
- 不吉を象徴する「月食」(しかも血のように赤い月ブラッドムーン)が夜空に浮かんでしまう。東ローマでは不吉の象徴とされており、さらに昔から「月食が起きるとき都は落とされる」という予言が伝わっていた。逆にオスマン側ではブラッドムーンは「相手にとっての凶兆」を意味していた。
- 決戦の数時間前の日中には、ハギア・ソフィア聖堂に雷が落ちる。民衆は「世界の終わりだ」と大パニックになったという(聖堂に雷が落ちるのはオスマン側からでも確認された)。
- ようやく派遣されたという情報が伝わっていた、救援に来るはずのベネチアの艦隊が来なかった。送り込んだ斥候が敵勢力をかいくぐってコンスタンティノープルに届けたのは「まだ姿が見えない」という報告だった。この瞬間、斥候の観測した地点からの距離的に「最低1週間はベネチアの艦隊は来ない」という見込みがほぼ確定的になった。
これらの凶兆が重なってしまった結果、ここに至って東ローマの民は「神は我らをお見捨てになられた」と絶望ムードで溢れており、逆にオスマン側では「アッラーは異教徒どもを見捨てた」と勝利確信状態で士気がはね上がっていたという。
東ローマの残された記録では、勝利を確信したオスマンの軍勢が発する叫びが夜の間も壁の向こうから聞こえ、東ローマの民は「最期を悟った」とされている。[1]
陥落
1453年5月29日、未明(夜明け前)。メフメト2世は、先代のスルタンの経験に学び、コンスタンティノポリスへの包囲は極力避け、短期決戦を選択。オスマン側は直属の精鋭部隊イェニチェリを中心とした10万の軍勢をもって、一斉に攻撃を開始。
対する東ローマ側も、防衛のシンボルとなっていたジェノバ人の傭兵隊長をトップとして、最後の抵抗を開始。オスマンの使い捨ての兵士たちによる第一波および正規兵による第二波の攻撃を退けたものの、オスマンの波状攻撃は収まらず、東ローマ側はしだいに圧倒され始める。
そこに、指揮を執っていたジェノヴァ人の傭兵隊長が負傷したことで守備側は混乱しはじめ、防衛のシンボルが撤退する姿を見たことで士気が急速に下がり軍全体の勢いが崩れ始める。さらには、不幸にも門の一つが閂をかけ忘れられ施錠されていなかった。それを発見したオスマン軍が城内に侵入した結果、コンスタンティノポリスは陥落、ここに、1000年続いた「ローマ人の国」が滅亡した。古代ローマ帝国から数えれば、実に約2000年の歴史であった。
――最後のローマ皇帝、コンスタンティノス11世は、帝国の最後の日、自ら死地に赴いたという。他国に跪き命乞いをする、という手もあったかもしれない。しかし彼は、最後まで、異教徒に背中を向けなかった。そのマントを翻し、剣を抜いて、異教のトルコ兵の群れの中へ駆け抜け、そのまま姿を消したとされる。
滅亡後
陥落後
夜が明けて5月29日の日中、メフメト2世は陥落させたコンスタンティノープルに自ら入り、オスマン帝国の新たな首都とすることを宣言した。ハギア・ソフィア聖堂では建物内を見て回り、「まるで天国にいるようだ」との表現を残している。[2]
コンスタンティノープル内では、入城したオスマン軍により略奪や陵辱が行われ、コンスタンティノープルの尼僧や乙女たちが現地で陵辱を受けたのちオスマン側に連行され競りにかけられた。自殺する女も出たという。[3]
ベネチアの艦隊は情報通り確かに向かっていた。しかし遅すぎたのである。ベネチアの船は海上で待機を続けており、艦隊として揃ってからようやく向かったが、コンスタンティノープルのあるマルマラ海の一歩手前であるエーゲ海まで到達した時点でコンスタンティノープルの陥落が伝えられ、引き返したという。
滅亡の影響
千年帝都の陥落とその余波は、西欧世界にすさまじい衝撃を与えることとなった。コンスタンティノープル陥落は、単なる一帝国の滅亡のみならず、キリスト教の権威失墜からの宗教改革運動の胎動、イタリア諸都市の地中海交易衰退と大航海時代の準備、知識人の亡命によるイタリア・ルネッサンスの導火線という事態となった。同年には、百年戦争が終結しており、これと合わせて西欧世界は近世と言う時代へと突入する。
加えて、この戦いは戦争のあり方が変わったきっかけともされている。メフメト2世はテオドシウスの城壁を攻略するのに超巨大な大砲(Huge Cannon)を60~70台発注したとされており、大砲を数十以上揃えて大規模な砲撃戦を展開したのはこの戦いが世界初であるとされている。
まだこの頃の大砲は精度が低かったものの、壁をそれ相応に削るなどの功績は果たしていた。1000年にわたり東ローマを守り続けてきた城壁だったが、メフメト2世率いるオスマン軍が展開した数十門の大砲によって2ヶ月にわたり砲撃を受けたことでコンスタンティノープル陥落時にはほぼ瓦礫と化していたことが記録されており、大砲の価値が注目され、壁による防御が時代遅れになったことを決定づける出来事になったという。
その後、オスマン帝国は、コンスタンティノープル陥落後も抵抗を続けていたミストラを1460年に陥落させ、東ローマ帝国を完全に滅亡させた。更に、同年コンスタンティノス11世の弟ソマス・パレオロゴスが領するモレアス専制公領を下して、1461年にはコムネノス王朝の生き残りであるトレビゾンド帝国も滅ぼし、東ローマに由来する国家を全て滅亡せしめた。これにより、ニカイア帝国がしたような地方亡命政権からの再興もあり得なくなった。
然し、ローマ帝国の歴史と権威は征服者オスマン帝国をして「ルーム・カイサリ(ローマ皇帝)」を名乗らせた。コンスタンティノープルはトルコ語風にコスタンティニエと改称され、オスマン帝国の新首都となった。オスマン帝国はこの後、二世紀以上にわたって拡張を続け、西欧にてローマを名乗る国―ハプスブルク朝及び神聖ローマ帝国―と干戈を交え、地中海に東ローマ帝国に勝るとも劣らない版図を築く。
コスタンティニエのさらに後に「イスタンブール」と改名されて繁栄したコンスタンティノープルは、後にオスマン帝国の後継となるトルコの主要都市として知られるようになるが、それは未来の話である。
1830年に、ギリシャがオスマン帝国から独立していくが、もはやこの国の国民が持つ意識は「ローマ人」ではなく、「ギリシャ人」であった。この国が目指したのは、「ローマ帝国」の復興ではなく、「ギリシャ」地域の回収であった。他のバルカン地域の国家も同様で、近代以降、かつての東ローマ帝国地域からローマの再興はあり得なくなった。
一方、コンスタンティヌス11世の兄弟ソマス・パレオロゴスの娘であるゾエ・パレオロギナ(コンスタンティヌス11世の姪っ子。ゾイ・パレオロギナとも)は、家族とともにローマに亡命して難を逃れており、モスクワ大公イヴァン3世に嫁いでいたことが、後にモスクワが「第三のローマ」となる道を残した。後にロシアとなるこの国は、「東ローマ帝国の継承国」を名乗って、17世紀から第一次世界大戦に到るまで、オスマン帝国と争い続けた。
ローマであること
しかし多くの資料・文献においては「ビザンツ帝国」や「ビザンティン帝国」と記され、これらの呼び名が広く普及している。とはいえ、これらの名称は19世紀以降に使われだした歴史学上のものに過ぎない。中世ローマ帝国という名称についても同様。
既に述べた通り、629年には公用語がラテン語からギリシア語になった。住民もギリシア人やスラヴ系が中心となった。それゆえか、西欧諸国、とりわけ「ローマ」を名乗った神聖ローマ帝国はこの国や皇帝を帝政ローマの後継とは認めず、「ギリシア(の)帝国」「ギリシアの皇帝」と認識していた。また、しばしば貢納による危機の回避や異教徒との妥協からか、狡猾・卑怯という意味で「ビザンツ人」と呼ばれもした。
けれども帝国の政府や住民は、(建前でも)「ローマ人」「ローマ人の国」であることを主張した。
多くの住民にとって、彼ら自身は「ローマ人(Ῥωμαίοι, Rhōmaioi)」だった。帝政ローマの伝統を継いだこの国は、「ローマ帝国」そのものだった。そこには誇りがあった。こだわりがあった。多くの物語もあった。それを、ローマ帝国と言わずして、いったい何と言えようか。分割後の西ローマと区別するべく東と付いたが、あくまでローマ帝国という点は変わらない。帝国はまごうことなき、「ローマ人の国」である。
皇帝の権威
新たな皇帝の推戴の儀式は、競馬場にて軍・元老院・市民の順番で執り行われた。皇帝となる者はまず軍隊の盾の上に乗り、次いで元老院と都の市民の歓呼を浴びるのである。これはローマ帝国からの伝統で、もっといえば古代ローマ末期の専制君主制(ドミナートゥス)をそのまま受け継いだ証しでもある。
概要で述べた通り、東ローマ皇帝とは「地上における神の代理人」であった。これはキリスト教の政治的な神学によるところが大きい。
皇帝の即位式は最終的にハギア・ソフィア聖堂で行われた。このときに新皇帝はコンスタンティノポリス総主教から帝冠を受け、宗教的権威という意味でも頂点に立つ。名実ともに「地上における神の代理人」となるのだ。
元来、東ローマ帝国とは地上の帝国であるが、天上の王国の再現でもあった。したがって地上における皇帝とは、天上の王(すなわち唯一の神)の再現なのである。理想としては、東ローマ帝国とその皇帝は、全文明世界の盟主であり、神による最後の審判まで君臨する、地上の最高権力にして最大の権威、といったところである。
つまり東ローマ皇帝とはキリストを演じる役割もあったということである。皇帝は最後の晩餐を模して祝宴に12人を招いたり、乞食の足を自ら洗い清めたりしたほどだ。
諸外国への対応
キリスト教世界を実現という理念は、東ローマ皇帝の態度によく表れていた。
招かれた異邦人やその高官らは、東ローマ皇帝の示した衣服に身を包んだ。待合室ではさんざん待たされ、どこまでも続いていそうな長い回廊を案内され、あげく衛兵に追い立てられるように皇帝を拝まされた。彼らは皇帝への服従の証しとして、3度も頭を床に付ける。
そして「面を上げよ」と許された次の瞬間、前にいたはずの皇帝は玉座とともに天上にまで移動し終えていた。見ると、皇帝の衣が紫色に変わっている。玉座の前には黄金のライオンがいたらしく、これらは大きな声で吠えたそうだ。もちろんすべては機械仕掛けである。しかし高度な機械類のなかった当時、招かれた客はこの一連の光景にさぞ驚いたことだろう。これもみな、皇帝の権威付けである。
これは条約相手がキリスト教国であれば、ローマ皇帝は全キリスト教徒の父であるとし、相手国を自らが頂点とする序列に位置付けた。ようは「俺様が一番偉い」である。いずれは全世界を支配する(という建前の)東ローマ皇帝にとっては、理論上は外国人など存在しない。各国の王を、さながら家長である皇帝の家族としてみなしたのである。
帝位の不安定さ
徹底してキリスト教世界の王という演出を施された一方、帝位の安定性についてはあまり良好とはいえなかった。
皇帝の推戴には「軍と元老院と市民の承認」が必要と説明したが、まさにそれが原因で皇帝位はぐらついたのである。皇帝は軍をはじめとして推戴されるが、逆をいってしまえば軍や元老院、そして都の市民の歓迎さえあれば誰もが皇帝となれるわけで、いってしまえばクーデターの勃発を許しやすい環境でもあった。また帝位の世襲化などは存在せず、これも皇帝位の不安定さに拍車をかけた。
ローマ復興を一時的に成し遂げたユスティニアヌス大帝や、帝国の最盛期を現出させたバシレイオス2世は、もとや先祖を辿れば農民である。東ローマの帝位が不安定であったからこそ、このように良好な新陳代謝が行われたといっても過言ではない。また、帝位が不安定であったからこそ、代々皇帝は緊張をもって統治に専念できたのである。
ただし、11世紀以降にアレクシオス1世の婚姻政策が始まると、帝位はある程度安定した。当然ながら良い意味での流動性は失われ、皇帝は「貴族連合の長」という役割に1段階転落した。たしかに皇帝位が安定しクーデターが減れば、治安はよくなるだろう。
しかし東ローマ帝国が強力な国家であったのは、ひとえに「頑丈なイデオロギーと柔軟な姿勢」の絶妙なさじ加減が理由のはずだ。かつての流動性を失うという意味では、帝位の安定はあまり良いことではない。
統治体制
テマ(軍管区)制
古代ローマの後期から、各属州1では、行政と軍事を分けた体制をとっていた(属州制)。しかし7世紀以降、イスラム勢力などの脅威から国家を防衛するため、属州の統治は、各地の軍管区(テマ)の司令官(ストラテーゴス)に任命される、テマ制(軍管区制)という体制に変わった。ちなみに「テマ」とは本来なら属州駐屯地の軍団を意味する。
簡単にテマ制を説明すると、自力で武具を買える農民を免税と引き換えに兵にする、といったところである。
各地で徴収された農民兵士たちは、軽騎兵として大いに活躍し、その士気は非常に高かった。なにしろ兵として徴収されただけで免税されたうえ、そもそも家族も含め国家が危機に面した時代であったのだから。
国家としても実においしい話であった。軍管区制で徴兵された農民は、みながみな武具を自腹で購入していたのだから、新たに政府から武器や防具を支給する必要がなかったのである。浮いた予算で好き勝手したことだろう。
8世紀には属州、もっといえば軍管区の区分は細かくなり、10世紀には外敵の脅威が薄らいだことから軍管区の行政は裁判官(クリテース)に委ねられた。マケドニア朝のバシレイオス2世の時代になると、大土地所有者のもとに農民たちが集中し、納税の心配が減ったからか、うまく機能しなくなった。結果としてテマ制が崩壊し、以後テマとは行政区域を示す用語となっていく。
1 古代ローマのイタリア以外の領土を指す。ここでは都より離れた地方と考えてもらってよい。
プロノイア制
国家への奉仕と引き換えに土地の徴税権を得る、という制度。基本的には一代限り。土地の所有権を認めるケースもあったようだ。
成立期は11世紀のコムネノス朝。すでに帝国が貴族連合の様相を呈していた時期である。アレクシオス1世はこの制度により帝国を統一し、反乱を予防しようと考えた。
イスラム圏のイクター制1にも似たこの制度だが、帝国末期のパレオロゴス朝にもなると世襲化2が進んだ。また地方の貴族たちがこのプロノイアのうま味を知りすぎたために、東ローマの統一性は失われていった。そもそもが帝国の不統一を解消すべく考案された制度なだけに、なんとも皮肉な話である。
1 徴税権を地方官に与え、その税の中から一定の金額を給与とした制度。
2 小泉。
至高の都
東ローマ帝国の首都はコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)であり、コンスタンティノポリスは帝国そのものである、といっても過言ではなかった。帝国の発展にはこの都があり、帝国の生死が決されるときもまた、この都次第であった。7世紀にシリアのアンティオキアや、エジプトのアレクサンドリアなどの東方の大都市を失うと、帝国のこの都に対する依存度は並びないものとなる。
都本来の名は「ビザンティオン」。これが、330年の旧都「ローマ」からの遷都、ならびに開都式の際に、時のローマ皇帝コンスタンティヌス1世(大帝)に因んで、「コンスタンティノポリス」と改名されたのである。
コンスタンティノポリスは4~6世紀には「第二のローマ」として発展し、7世紀にはイスラムの影に低迷するも、9~11世紀には空前の大都市として栄華を極め続ける。このありようは、ちょうど、帝国の盛衰の時期に重なっている。
地理と貿易
都はバルカン半島の東端に位置し、北は黒海に、南は地中海に面し、ペルシャなどの東方地域と、イタリア諸都市などの西方地域を結ぶ懸け橋となった。そのうえ都の西部を除く3方向が海に囲まれているため、主要な城壁のすべては都の西部に集中して構えられたから、瞬く間に不落の巨大都市としての信頼を勝ち得た。
そういった防衛面での安心感も相まって、文明・貿易の十字路となったコンスタンティノポリスには、各国からの商人が絶えず、ヴェネツィアなどの海洋都市はおろか、イスラム圏からの商人たちも都に足を運んだそうだ。彼ら商人はまた、世界中からこの都に集まった商品に、くぎ付けであったのだ。あの十字軍兵士も、その壮麗さにしばしばため息を漏らしていた。
コンスタンティノポリスは、東西貿易の要衝としても名高い。当時の中国から養蚕技術を輸入する代わりに、帝国特有の織物を輸出するなど、都は東西貿易路(シルクロード)の一角として栄えた。
ちなみに、皇帝専売のプルプラ貝で染めた紫色の絹織物は、国営の工房で製作され、贅沢品として、ときに給料として、ときに外交・取引上の高価な切り札として、帝国の内外問わず多くの者が欲するにいたった。その価値は現代の石油に匹敵したという。これは皇帝の権威を示すと同時に、都の繁栄を示唆するものでもあった。
競技場
ローマ帝国から多くの伝統と文化を引き継いだ東ローマには、当然、古代ローマから続く「奴隷の戦い」や「戦車競走」が催されていた。特に後者の競技は、パンの無料支給と相まって「パンとサーカス」と呼ばれるほどに都の有名行事となっていく。
大広場(アウグスタイオン)の南にある競技場(ヒポドローム)は、330年5月11日、首都開都式と同時に開場された。この競技場はローマの大競技場の模倣であり、観客席は10世紀までは木造、それ以後は大理石となった。この広場は3万人から5万人を収容できたという。皇帝もまた競技を楽しむべく貴賓席に座った。競技場は数少ない「民衆と皇帝が出会う場所」でもあった。皇帝の席はそのまま、大宮殿へと繋がっていたらしい。
ここで行われたのが「戦車競走」である。馬の後ろに台車を付け、人を乗せて走る競技だ。観客は党派(デーモス)ごとに組織され、各々は自身の党派を応援した。怒号が飛び交うその景色は、ある意味では現代の競馬場と大して変わらないかもしれない。
党派は初め4つあったが、後に「青」が「白」を、「緑」が「赤」を吸収して、「青」と「緑」の二派となった。ここで特筆すべきは、「青」と「緑」の党派の長官(デマルコス)は高い爵位をもち、首都の治安維持に尽力したばかりか城壁の警護にもつく市民軍の指揮官でさえあった、というところである。
また「青」は皇帝の右側を、「緑」は皇帝の左側を占めた。皇帝は競技場に入るとまず、「青」か「緑」に挨拶を送った。これには政治的な意味がある。というのも、「青」は保守と宗教的な正統を、「緑」は反体制と宗教的異端を示していたからである。故に皇帝は、多くの場合、右寄りの「青」へ挨拶を送ることが多かった。
このように競技場はたんに「パンとサーカス」というだけでなく、政治的意味を強く持つ場でもあった。両者は意見の相違からしばしば乱闘となったそうだが、この騒ぎは皇帝にとっては良い知らせであった。何故なら両者の結託は皇帝権を脅かす存在となり得るからだ。後述のユスティニアヌス治世期の「ニカの乱」は、「青」と「緑」の結託から起きた大反乱である。
難攻不落の城壁
テオドシウス2世(401~450)が建設した城壁は、まことに頑丈な壁であった。
先に挙げたコンスタンティヌス1世が建てた城壁が手狭になると、彼テオドシウスは、市域を2倍に広げた上、海岸沿いに防壁を造り、陸上の城壁を二重の構造にした。15メートルもある天高くそびえるその壁は、見る者すべてを圧倒した。
オスマントルコ勢力が大砲を使い始める以前は、この三重の城壁が崩れる原因は、地震と味方の裏切りの他はなかった。完璧ならぬ完壁といって刺し違えないこのテオドシウスの城壁は、都コンスタンティノポリスを守り続け、約1000年にも及び東ローマ帝国を支え続けた。
都市の暮らし
誰よりも誉れ高く、と言わんばかりに壮麗さを競う、皇帝や貴族たち。一方、都の市民らはどのように暮らしていたのか。
工場
ほとんどが小規模経営。また家族経営でもあった。
商工業で主だったのは、工房と商店を併せもつ小さな店舗(エルガステリオン)だった。これらの店の多くは、輸入品ではなく自作の商品を並べていたのである。もちろん輸出入を行う貿易的な店舗もあったが、そういった店は工場を持たず、商業に専念していた。貿易を行う店には、専用の倉庫があったという。
コンスタンティノポリスの商工業は、多くは職人たちが土地を借りる形で成立していた。なにしろ帝都の土地は大半が貴族のものだったからである。工場の家賃は年15~20ノミスマ。目安として、借りている店舗そのものを買い取る際の単価が、数100ノミスマである。早くとも10年ほど働いてやっと、といった具合であろうか。
腕の良い奴隷を労働させることもあり、この場合彼らは280日ほど働いてやっと自由になれた。
職人
基本的には組織化されていた。
帝都コンスタンティノポリスにおいては、職種ごとにギルド1が存在した。また、公共事業や軍事戦略、生活必需品にまつわる職は、市総督の統制下にあった。『総督の書』なる書物に、ギルドの規定が確認できる。こうした環境から、職人は孤独な世捨て人ではなく、世俗と密接な関係にあったことがうかがえる。
養成においても組織化されていた。
養成学校においては、まず基本的な知識と専門的な技能を習得させた。そしてギルドへの加入資格があるかどうかの審査を行う。合格した場合は証拠として名簿を市総督に提出し、それによりギルド加入への許可が下りる。ちなみに、こういった仕組みからか、東ローマ帝国においては生活必需品の投機が予防され、商品の質が維持された。
1 商工業者の間で結成された職業組合。商業ギルドや同業者(手工業)ギルドなどが存在した。コンスタンティノポリスでの絹織物の販売には、女性も参加していた。
商売
多くの贅沢品に恵まれていた。人々がブドウやリンゴ、ナシなどの果物を買い、秋の味覚を楽しんだという記録が残っているくらいである。
先述した通り、プルプラ貝で染めた紫の絹織物は、皇帝の専売物であり、また権威の象徴でもあった。異国から来た王侯貴族はこれを非常に喜んだという。つまり政治的な価値もあったというわけだ。これを市民が買うことも(一応は)可能であった。もっとも、その場合はお偉い市総督様の監視の下、なのだが。
黄金の細工品もまた有名である。ビザンティン文化を取り入れた、繊細で美しく、そしてどこか妖しげのある金の品々は、東西問わず多くの者を魅了した。今日のイスタンブルの西にある町には、いまだにこの東ローマ帝国の黄金細工を手で作って販売している人々がいる。それほどまでに、後世に残しておきたい文化の一つなのであろう。
このような贅沢品を中心とした工芸品は、他国へどんどん輸出され、東ローマ帝国を活気づけた。
学問と教育機関
古代ローマ帝国がそうであったように、東ローマ帝国においてもギリシア文化は重要な学問であった。テオドシウス1世(在位:379年 - 395年)がキリスト教を国教として以来、東ローマ帝国においてギリシア古典は異教の文化として蔑まれてきたが、学びの基盤であることに変わりはなかった。
9世紀にもなるとギリシア古典の価値は著しく上がり、コンスタンティノス7世(在位:913年 - 959年)の代には大いに復興される。ギリシア語が公用語となったのは629年だが、このギリシア的な文化の勃興も相まって、東ローマ帝国のギリシア的色彩はより一層濃くなったのである。
主な学問
古典ギリシア文化というと、ソクラテスに見られる哲学や、エウクレイデス(ユークリッド)の幾何学が連想されるだろう。ところが東ローマ帝国における学問とは、実のところそれらに限らない。帝国においては音楽もまた重要視され、算術・幾何学・天文学と同等の扱いを受けた。こちらも、古代ギリシア音楽を参考にして編み出された、東ローマ帝国特有の教養である。
以下が東ローマ帝国における基本的、あるいは重要な学問である。
教養への意識
我が子の出世を望む者は、みな一様に教養を重視した。
その実力により、農民から皇帝にまで登りつめたユスティニアヌス1世を見ればお分かり頂けるであろう、東ローマ帝国はまさしく実力主義の社会であったのだ。だからこそ、立身出世を望む者はみな教養を重要視したのだった。地方の小貴族が高位の官職に就くことができたのも、ひとえにその教養の故である。
学校
東ローマ帝国の授業風景は現代のそれと非常に似ている。人数こそ少ないが、大学の哲学の講座などを想像していただければ、その風景も想像に難くないかと思われる。
初等教育
初等教育はアナトリア半島の東端、シリアの一歩手前にまで普及しており、村には必ず教師がいた。子供たちは8~9歳以下の年齢から国語の読み書きや聖書あるいは聖人の伝説・伝記などを学習する。しかし驚くべきは、この初等教育の段階で、子供たちがギリシア古典を用いて古代ギリシア語をも習得していったことである。
さてこの初等教育だが、有料でカリキュラムも教師が決める、というものだった。現代の我々からすれば、いわゆる「私塾」のような施設だったに違いない。
中等教育
初等教育が充実する一方、中等教育の施設は帝都コンスタンティノポリスに、しかも大半は都心部に限られていた。我が子の出世を願う親御さんたちは、子供が10代に入ると中等教育を、と考えていたようである。そのため地方の貴族らは帝都に住む親戚に子を預け、中等教育を受けさせた。他方で貧乏な者にとって帝都に上らなければならないというハンデは、あまりに大変なことだった。
学生の年齢層は10~18歳ほどで、最上級生には教師(マイストル)がついた。また助手(プロクシモス)も頻繁についたようである。教師と助手に直接教えられた上級生だが、今度は下級生の監督役として、授業を教えていた。どうやら教師→上級生→下級生といった風に、教え、教えられる序列ができあがっていたようだ。
なお、上で挙げた文学関連の学問は、この中等教育から導入されている。
しかし面白いのは、生徒の中にも現代に通ずるリベラリストがいた、という点である。すなわち、週に1度か2度ある試験をボイコットしたり、そもそも授業をサボったり、あるいは教師を悪く言ったり、などである。親近感がわいただろうか。
大学
大学はマグナウラ宮殿だけ、というように限られた地点にのみ存在した。講座は4つと少なく、故に学生の数もごく限られていた。まさにエリートを養成するための施設というわけである。設立は9世紀初頭。
ここでは初等教育、中等教育で練り上げた文法の他、哲学・幾何学・天文学などのギリシア古典をフルに活用した高度な学問が取り扱われた。初等教育や中等教育とは違い、大学は国営であった。もっとも10世紀末には姿を消し、1047年に法科大学として復活するが、コンスタンティノポリス総主教の干渉により結局は無くなった。
存在した期間を王朝でいうならば、アモリア朝からマケドニア朝の間、といったところである。
農民の生活
農民の存在も忘れてはならない。確かに農民たちの生活は、華やかな王侯貴族や都市民と比べ、どこか暗い印象を受ける。しかし、東ローマ帝国の富は何を隠そう彼らの存在があってこそである。農民に課せられる土地税こそが、国家の最大の収入源であったのだから。
ローマ帝国の東西分裂からしばらくの間は、東ローマ帝国の農業は他国に比べ先進的だった。しかし10世紀にもなると、二股の鍬1を除き大した発明が見られなかった。西ヨーロッパにおいては農業生産が躍進し、イスラム圏では灌漑農法2によって収穫が飛躍したのに対し、東ローマの農業には進展が見られなかったのである。課税による収入はおろか穀物の供給にまで農民に依存した東ローマ帝国にとって、この農業の遅れは国家の停滞につながった。
農業に勤しむ彼らは、村落において集団で住んでいた。放牧地の使用、納税、宗教行事への参加は共同であたるその姿は、まさに団結力のある共同体である。
しばしば農民は、農奴的なイメージで語られやすい。事実、東ローマの農民は、経済的に貴族と疎遠の関係にあった。また食文化にしても、甘味料は蜂蜜に限られていた。しかし、かといって不憫なだけかといわれればそうでもない。イチジクやブドウを干したり、夜風にあたって涼んだりと、思いのほか風情のある生活をしていたようだ。
1 くわ。よく時代劇で、農民が田畑を耕す際に用いているアレである。
2 外部から農地へ人工的に水を供給する農法。
苦労
土地の大半はやせており、農民たちは少なくとも1年おきに土地を休ませなければならなかった。そのため秋には休閑地の土を起こさなければならなかった。しかし土の層があまりに薄すぎたため、有輪の犂1を使用できなかった。そういった理由から、シャベルで土を掘り返してから、無輪の犂で耕すという、めんどくさ過ぎる労働を強いられたのである。
また干ばつや大雨、寒波などの自然災害も非常に厄介であった。本来ならば、レンズ豆、エンドウ豆、そら豆などはほどよく収穫できるはずであった。にもかかわらず、アナトリア半島をはじめとする多くの地域では、常に何かしらの不作に苦しめられていた。瓶の中のワインが凍るほどの気温にも襲われ、そのあまりの寒さゆえに冬蒔きの種が全滅することもあったという。
1 種まきや苗の植え付ける前に、土壌を耕起する農具。プラウとも。
知恵
このように農業面はとても不安定にあったから、農民たちは安定した収入源を欲した。そこで彼らは、野菜、果物、オリーブなどの作物や商品を、近隣の都市へ売りさばいた。東ローマ帝国では、農民にもその程度の商売の権利は確保されていたのである。
むろん田畑を疎かにしていたわけではない。
必要とあらば、井戸から汲んだ水を、自らの手を使ってわざわざ田畑に撒くまでのことをやってのけた。一家が生きていくにはどうしても畑一つは欠かせなかったから、どんな労苦も厭わなかったのである。
先に述べた通り、農村は強い団結によって成り立っていた。1対計2頭の牛で犂を引かせ、田畑を耕し、それでも足りないのであれば近所の手助けを借りて土地を肥やしていく。また納税に対しても、村落全体が共同で責任を負う。そのようにある種の連帯責任を負いながら、農民は国家に貢献していったのである。
分類
パロイコイは恒久的な小作人だが、土地を離れることも許された。一方、自らの農地を所有する者でも、生活に困れば他人の農地を借りたり、パロイコイになることもあったようである。7~10世紀は小規模な農地をもつ農民が多く、それ以降はパロイコイが大多数となる。
東ローマ帝国の歴史的意義
神への屈服からくる正教会と、ヒューマニズム溢れる古典ギリシアの融合によるビザンティン文化。
頑ななまでに「ローマ帝国としての意識」をもつ一方で、ときに貢納や外交により多くの妥協と脱皮を繰り返した点。
そして、文明の十字路にあり、東西の文化を吸収・研磨し新たな文化圏を形成、東欧の基礎を生みだした功績。
東ローマ帝国は、たとえ滅びようとも西ヨーロッパのルネサンスに多大な影響を与えた。
また、滅ぼした張本人であるオスマン帝国でさえ魅了し、あろうことかその文化を継承させた。
古今東西の多くの文明を融合させ、また少なからず後世にその遺産を残した点で、東ローマ帝国は歴史的に大きな意義をもつ国であった。多様な文明、栄枯盛衰、喜怒哀楽のあった1000年という時の中で、「ローマ」であり続けようとし老いゆくこの国から、我々はたくさんのことを学べるのではないだろうか。
年表
年 | 出来事 |
---|---|
前27年 | ローマが帝政を開始 |
330年 | ローマ帝国がコンスタンティノポリスに遷都 |
379年 | テオドシウス1世が即位、テオドシウス朝がスタート |
392年 | キリスト教が国教となる |
395年 | ローマ帝国の東西分裂 |
441年 | アッティラ率いるフン族がヨーロッパに襲来 |
457年 | テオドシウス朝の断絶、以後レオ朝 |
476年 | 西ローマ帝国が滅亡 |
480年 | 最後の西ローマ皇帝が暗殺される |
491年 | レオ朝断絶 |
491-518年 | アナスタシウス1世による財政再建と国防の強化 |
518年 | ユスティニアヌス朝の成立 |
527年 | ユスティニアヌス1世即位 ノミスマ金貨が発行される |
532年 | ニカの乱 |
533-534年 | 旧西ローマ領の北アフリカを奪回 |
535-555年 | イタリア奪還 |
542年 | ペスト流行 |
560年 | スラヴ人がバルカン半島に侵入 |
568年 | ランゴバルド人がイタリア北部を中心に侵入する |
584年 | イベリア半島南端が陥落 |
602年 | ユスティニアヌス朝が断絶し、以後フォカス帝による圧政が続く(~610年) |
610年 | ヘラクレイオスがクーデターを起こし即位、ヘラクレイオス朝が成立する |
611年 | シリアの大都市アンティオキアがササン朝ペルシャ帝国に占領される |
614年 | イェルサレムがササン朝ペルシャ帝国に占領される |
617年 | エジプトがペルシャ軍に占領され、穀物の供給が滞り始める |
622年 | ムハンマドのヒジュラ(聖遷)によりイスラームが勃興 ヘラクレイオスが対ペルシャ遠征を開始 |
626年 | ペルシャ連合軍による帝都コンスタンティノポリスの包囲 総主教セルギオスらの尽力によりこれを敗走させる |
628年 | ヘラクレイオスの軍がペルシャ帝国の首都クテシフォンに接近 |
629年 | ペルシャ帝国に勝利、古代ローマからの因縁が断たれる ペルシャ軍が全占領地から撤退し、東ローマ帝国の経済・食糧供給の力が回復 公用語がギリシア語に替わる |
636年 | ヤムルークの戦いにてアラビア軍に敗北 |
642年 | エジプト・アレクサンドリアが陥落 |
672年 | ギリシアの火が活躍 |
674-678年 | コンスタンティノポリスがウマイヤ朝イスラム帝国に包囲される |
681年 | 対ブルガリア戦で惨敗 ブルガリアが独立し、第一次ブルガリア帝国が成立する |
683年 | ウマイヤ朝イスラム帝国に対し大勝する |
692年 | 税務長官が登場 |
693年 | ウマイヤ朝イスラム帝国に敗北 |
711年 | ヘラクレイオス朝が断絶する |
717年 | シリア朝(イサウリア朝)が成立 ウマイヤ朝の帝都包囲(2度目) |
726年 | 聖像破壊運動(イコノクラスム)が始まる |
730年 | 聖像禁止令を発布 |
740年 | アクロイノンの戦いにて、ウマイヤ朝イスラム帝国に圧勝する |
745-748年 | ペスト流行 |
751年 | 北イタリアのラヴェンナが陥落する |
763年 | アンギュロスの戦いにてブルガリア軍に勝利 |
787年 | 聖像崇敬が復活 |
800年 | ローマ教会がフランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)を「ローマ皇帝」として即位させ、神聖ローマ帝国(の原型)を誕生させる これにより東ローマ帝国の西欧への影響力は低下し、欧州が東西に分裂する |
802年 | シリア朝が断絶 |
810年 | アモリア朝が成立 |
813年 | ブルガリア人がコンスタンティノポリスを包囲 |
827年 | クレタ島がアッバース朝イスラム帝国に落とされる |
860年 | キエフ・ロシアがコンスタンティノポリスに攻撃 |
864年 | ブルガリア人が正教会に改宗 |
867年 | マケドニア朝が成立 |
902年 | シチリア島を失う |
911年 | キエフ大公国と初の条約締結 |
927-928年 | すごく寒い。 |
944年 | キエフ大公国と二度目の条約 |
961年 | クレタ島を奪還 |
969年 | 奪われていたアンティオキアを占領 |
970年 | キエフ大公国がコンスタンティノポリスを包囲 |
976年 | バシレイオス2世即位 |
976-989年 | 反バシレイオス2世派の大反乱 |
990-994年 | 対ブルガリア戦 |
994年 | ファーティマ朝イスラム帝国を撤退に追い込む |
998年 | ブルガリア戦再開 |
999年 | シリア奪還 |
1000年 | 西グルジアを制圧 |
1001年 | 第一次ブルガリア帝国を圧し、マケドニアを獲得する |
1012年 | ノルマン人が南イタリアへ侵入 |
1014年 | クレイディオンの戦いにて第一次ブルガリア帝国に大勝する |
1018年 | 第一次ブルガリア帝国を滅ぼし、バルカン半島を統一する |
1025年 | 東ローマ帝国の最盛期 イタリア南部、バルカン半島、アナトリア半島、クリミア半島の南端、シリアの北にまで至る大帝国 12月25日、バシレイオス2世死去 |
1032年 | エデッサを占領 |
1043年 | ノミスマ金貨の価値が低下し始める |
1050年 | アルメニアを併合 |
1054年 | 教会分裂(シスマ) ローマ教会がコンスタンティノポリス教会と決別し、東ローマ帝国から独立する |
1057年 | マケドニア朝断絶 |
1059年 | ドゥーカス朝の成立 |
1068年 | ノミスマ金貨の価値が急落し始める(~1081年) |
1071年 | ノルマン人がイタリア南部に攻勢 マンツィケルトの戦いにてセルジューク朝トルコに大敗を喫する |
1081年 | アレクシオス1世の即位により王朝がコムネノス朝に代わる |
1082年 | ヴェネツィア共和国と条約を結ぶ |
1090年 | ペチャネグ人襲来(~1091年) |
1095年 | 第一回十字軍(~1099年) |
1137年 | ヨハネス2世がアンティオキアを奪回する |
1170年 | ピサと条約を結ぶ |
1176年 | 対セルジューク朝トルコのミュリオケファロンの戦いにおいて敗北する |
1185年 | ノルマン人がテサロニカを占領 国内クーデターによりイサキオス2世が即位、アンゲロス朝が始まる |
1204年 | 第四回十字軍がコンスタンティノポリスを陥落させラテン帝国を建国する 東ローマ帝国が一度滅亡、エピロス専制侯国、ニカイア帝国、トレビゾンド帝国などの亡命政権が各地に樹立 |
1261年 | ニカイア帝国によりコンスタンティノポリスを奪還、東ローマ帝国が復活 ミカエル8世によりパレオロゴス朝が成立 |
1274年 | ローマ教会との合同を企画 →失敗 |
1299年 | オスマン帝国が成立 |
1331年 | ニカイアがオスマン帝国に占領される |
1334年 | セルビアを平定する |
1340年 | エピロス専制候国を帝国領として併合する |
1341年 | テサロニカにて熱心党(ゼーロータイ)の民衆暴動が勃発 |
1354年 | オスマン帝国がガリポリを占領、帝都の対岸に要塞が建設される |
1376年 | 東ローマ帝国がオスマン帝国の属国と化す |
1399年 | マヌエル2世がフランス王国、神聖ローマ帝国、イングランド王国にそれぞれ援軍を要請すべく欧州を駆ける |
1422年 | オスマン帝国がコンスタンティノポリスを包囲 |
1430年 | オスマン帝国がテサロニカを攻め落とす |
1453年 | 5月29日、オスマン帝国のスルタンメフメト2世によりコンスタンティノポリスが陥落、東ローマ帝国が滅亡する |
1460年 | ミストラ陥落、モレアス専制公領がオスマン帝国により滅亡 |
1461年 | トレビゾンド帝国がオスマン帝国により征服される |
1467年 | モスクワ大公国のイヴァン3世が、ローマ帝国の継承者を自任 |
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関連リンク
脚注
- *オスマン帝国: 皇帝たちの夜明け (NETFLIX オリジナルシリーズ)
- *オスマン帝国: 皇帝たちの夜明け (NETFLIX オリジナルシリーズ)
- *エリザベス・ハラム『十字軍大全 - 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』 (2006)
- 115
- 7777400pt