ホロドモール(宇:Голодомо́р・英:Holodomor)とは、1932年から1933年にかけてウクライナ人の居住地域で起きた大飢饉である。
概要
ウクライナは1922年、ロシアや南コーカサス、ベラルーシとともにソビエト連邦を構成する。このウクライナという地域は『ヨーロッパのパンかご(Breadbasket of Europe)』とも呼ばれる広大な穀倉地帯であり、ここでとれる小麦はソビエト連邦にとって重要な外貨獲得手段であった。また、ソビエト連邦は共産主義的考えより、『富農(クラーク)』と呼ばれる自営農家を反共主義的であるとして敵視していた。とりわけ、ウクライナの農家に関しては厳しいものであった。ソビエト連邦成立に当たり、ウクライナの反発は大きく、ソビエト・ウクライナ戦争で大きく手を焼かされたためである。
こうしたなか、スターリンは第一次五カ年計画の一環として自営農家を中心としたウクライナ地域で農業の集団化(コルホーズ)[1]を強行する。ウクライナ地域の富農(と見なされた者)は徹底的に弾圧され、反共・反露・民族主義の強いウクライナ地域から農産物を徴発し、外国に輸出した。いわゆる飢餓輸出というやつである。
この徴発は徹底的に行われ、肥沃なウクライナでも計画達成は困難で、徴発されたあと、農民たちの食べる分は殆ど残っていなかった。更にはパンの取引や落穂拾いは人民の財産の収奪であるとして罰せられた。それでも1930年は豊作の年であった。ソビエト連邦は、この年の収穫量をベースに翌年の徴発計画を立てる。しかし翌年の1931年は不作の年であった。それでも前年と同じだけの徴発を行われ、作付用の種子までも徴発した。スターリンはウクライナ地域の農民は農産物を隠していると考え、共産主義的考えより「農産物は人民の財産である」として徹底的に出させようとしたが、不作なので農民は本当に持っていなかった。
それでも共産党は徴発をやめなかった。食卓からパンを、調理中の鍋から粥を徴発した。そのくせ農民たちが飢餓を訴えても、「どうせパンを隠しているんだろう。それを食べればいいじゃないか」と相手にしなかった。更には飢えた国民はソビエト連邦の信用失墜を目論む資本主義の犬だとして、彼等に対する徴発を緩めるどころかどんどん強めていった。ウクライナの人々は、ネズミや長靴の革、更には肉親に至るまで食べて飢えをしのいだが、それでも多くの人々が亡くなった。
あまりの酷さに、ウクライナ地域はドイツの侵攻をむしろ歓迎し、共産党員を引き渡すなどドイツの支配に積極的に協力したともされる。もっとも、ドイツもまたナチス政権下であり、スラブ系住民を排除しアーリア人種を入植させようと考えていたため、同じように飢餓計画を練っていたとも言われている。
ウクライナ化学アカデミーは400万人がホロドモールの犠牲になったと推計している。また異論には700万から1000万ともいわれている。多くの人々が飢え死に、倒れた死体の中に、五カ年計画達成を祝した凱旋門が建てられた。ソビエト連邦は他国から指摘されても1980年まで飢餓の存在を認めることはなかった。
ホロドモールをめぐるウクライナとロシアの意見の対立
ウクライナ地域ではホロドモールはアルメニア人虐殺やホロコーストに並ぶ歴史的大虐殺であるという見方が強い。広範な凶作が起きていたにもかかわらず、ウクライナ地域から農産物を徴発し、人為的に引き起こされた大飢饉である、としてウクライナ人の大量虐殺事件と主張しているわけである。
一方ロシアサイドではウクライナでそういった事が起きていることは認めているものの、ロシア人やカザフ人、ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人といった他の人種もまたホロドモールの犠牲になったとして、ウクライナ人の大量虐殺事件とする見方を否定している。
現代でもこのホロドモールはウクライナ人の対ロシア感情に影響を及ぼしているとされており、2022年にウラジーミル・プーチン大統領のもとロシアがウクライナに侵攻を行った際、ウクライナの決死の抵抗を説明できるとしてホロドモールが持ち出されることが多い。
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- 少なくとも700万人が餓死した、ウクライナ大飢饉「ホロドモール」とは?│旅をする記
- ウクライナの大飢餓“ホロドモール”とは? 歴史家が指摘するプーチンとスターリン政権の共通点 | ABEMA TIMES
- Famine, subjugation and nuclear fallout: How Soviet experience helped sow resentment among Ukrainians toward Russia
関連項目
脚注
- *ソビエト連邦は農産物、とりわけ穀物の調達危機を回避するため生産性向上を図っていた。そのため農具・家畜などを共有し、労働者が組合員として農業に従事し、賃金を得るスタイルを確立。この集団農場を指してコルホーズと呼ぶ。
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